HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
最近続き過ぎる「閣僚クラスの政治家」の不祥事
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    これら一連の問題は(総理大臣を筆頭に)どれも(人としての)レベルが低すぎて、そもそもそんな話を耳に入れたくもないし、それについて話したくもないというのが正直なところです。

     

    思えばどこの小学校の教育目標にも「考える力を養う」という類のものが掲げられており、それは当然「自分で考えられた分だけ自分で行える」という意味を含んでいる訳です。そうなると最近の(不祥事絡みの)政治家諸氏は、この「考える力」も無いとしか言いようが有りません。何故なら、見ている限りでは「不祥事の後の身の振り方」がまったく道理に適わず「なってない」からです。どの人も少なくとも「自分で考えて自分で行動する能力が有る」とはとても思えない対応で、それは強いて言えば「何が起こったか判らずその場に茫然と立ち尽くしている」姿に限りなく近いものです。それが証拠にほとんどの人たちが「辞任しない、辞職しない」からです。但し(曲がりなりにも)発言等に対する「謝罪、訂正、撤回」が行われているのは「自分で考える力」によるものではなく、さすがに「誰かに背中を押された」からです。つまり本来は(背中を押されなければ)揃いも揃ってそれすらも出来ない人たちということになります。(それってヒド過ぎませんか?)

     

    とにかく「考える力」が無いことが判明した限りに於いては、この際「謝罪、訂正、撤回」に留まらず、「辞任、離党、辞職」の必要な一連の行動に関しても、逐一「誰かが」というより「みんなで背中を押してあげるべき」だと思います。そうでないと、この人たちは(その場で茫然としたまま)いつまで経っても自分で態度を決することが出来ないようです。それではいつまでも晒しものとなって気の毒ですし、みんなも大いに迷惑しています。つまりそうすることがお互いのためだということです。

     

    因みにそういう不祥事絡みの「考える力の無い人」の多くで東京大学、財務省など学歴、経歴共に一流の人たちを見かけますが、「勉強の仕方を誤ると肝心の小学校レベルの考える力さえまったく育まれない」という好例とされ「要警戒」と言えるでしょう。

    | かまた | 時事関連 | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
    電車に乗ると分かること
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      電車に乗るといったい何が分かるのでしょうか?ハイ、人々の精神的実態、ひいては社会の精神的実態が良く分かります。別にそういうことを見たくて知りたくて乗っている訳では有りませんが、結果的に「嫌でも見せつけられる」ことになってしまうのです。それは何故でしょうか?

       

      それは多くの人々は一歩家の外へ出ると、その間「真っ当な社会人」を演じ続けなければならない現実があるからに他なりません。謂わばその姿は「素(す)の自分ではなく、演技そのもの」と言って良いものです。

      つまり殆どの人たちのメンタルは「真っ当な社会人」と言える代物ではなく、ただ様々な理由から「それを演じる必要性」だけは認識している、ということになります。

       

      どうしてこんな事になってしまったのでしょう?それはそのような「裏表を使い分けるメンタリティ」を容認、或いは推奨する教育を施されて来た結果だと私は思っています。これは戦後日本の「自由主義経済を社会基盤とした弱肉強食的競争原理」に基づく教育の下では、むしろ当然の事と思われます。

       

      そうした社会環境にあって、例えば競争相手(=ライバル)に対して「自分を磨いてくれる良き友」と思うか、それとも「自分の存立を脅かす敵」と思うかは、まったく各人に一任されており、教育的に整合性を以ってコントロールする事は困難です。何故なら人々にとっては、そんなことよりも「競争による勝敗の結果」の方が遥かに深刻に違いないからです。(この状況下での表面的な道徳教育など、人々に余計に混乱をもたらすに違い有りません。)

       

      電車の話に戻しますが、そこは人々にとっては(基本的に)お互いが「何の社会的しがらみも感じなくて済む精神的に開放された空間」と感じられる場であるようです。その意味で多くの人たちは(おそらくは無意識でしょうが、無防備にも)「素顔をさらけ出している」ことが多いのです。そうした顔は少なくとも「職場や所属するグループ内」では有り得ない、どちらかと言えば「家の中での顔」に近いものと思われます。

       

      近年は乗り込むとすぐにスマホや読書に耽る姿を多く見かけますが、問題はその表情や風情がどの人も(良く見ると)「辛そうであったり、苦しげであったり、暗く陰鬱であったり、或いは必死に何かに没頭しようとしていたり」と、人によってニュアンスの違いは多少有っても共通して周囲に対する「無視、無関心、無頓着」という或る種の「排他性」が見て取れます。(その様子からは本来の社会性など微塵も期待出来ません。)

      しかし現実はこのように「裏表のある人々」によって、(かろうじて)社会が支えられているということです。

       

      このような社会を(心の奥底では)誰も望んでいないに違い有りません。それは「演じ続けなければならない」こと自体が道理に合わず苦しいことだからです。にも関わらず何故私たちは演じ続けなければならないのか。それは「社会システム(=経済システム)」自体が私たちに(有ろうことか)「反社会性(=自己中心主義)」を要求するという本質的な「矛盾」が原因です。

      私たちはこの「矛盾」を即刻正さなければなりません。

      | かまた | 時事関連 | 11:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
      「破綻」の時代は「居直り」の時代
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        今年は「瓦解、崩壊」がキーワードですから、その結果として様々な物事が「破綻」します。その中には当然、人々の暮らし向きや立場なども含まれる事となるでしょう。

        普通は「破綻」すれば色々な意味で「追われる身となり、身の置きどころに窮する」はずですが、最近の傾向としては、それよりもむしろ「居直り、開き直り」に転じる人々が増えているようです。この傾向は以前から知られているところの「逆ギレ」という現象に通じるものが有るように思います。その特徴はどちらも「論理的思考を放棄している」ということです。

         

        人間は追い込まれると、その最大の関心事は「自己擁護」となるようです。一方で平素、社会の一員として社会生活を営む上では「他者とのバランス」が必須とされ、そのため(曲りなりにもそれなりの)「論理的思考」が求められる事になります。しかしどうもその時点から(本音では)それを「不本意」或いは「苦手」として、バランスを取るための「論理的思考」自体をストレスと感じている人々が多くなり、その結果すぐに「逆ギレ」するということだと思います。

        つまり「逆ギレ」も「居直り、開き直り」も、それから(今朝も報じられていた)「轢き逃げ」なども全て、その人間の平素からの「本音」そのもので、言い換えれば「元々そういう人間」ということです。

         

        取り分け、今の日本を象徴しているのは、再三にわたって「総理大臣が国会答弁で逆ギレ」と報じられ、国民がそれをこれまた「看過」していることです。これはつまり日本政府そのものが(理詰めで追い詰められると)「逆ギレ」し、「居直り、開き直り」を先陣切って体現しているということであり、更に驚く事には、国民もそれを目の当たりにして「余り違和感を感じていない」と思われる節が有ります。

        これには国民がそれを「見慣れた」とか「慣らされた」というより、むしろ「わかる、気持ちわかるよ」みたいな低レベルの「同類意識」が働いているのではとの懸念さえ覚えます。

         

        しかし良く考えて下さい。「破綻して居直る」ということは、自己擁護に徹する余り「社会的責任を一切負わない」と宣言しているのと同じです。政府が率先してそれを行ない、国民の皆もそれに準ずるとなれば、それは直ちに「社会全体の崩壊」を意味することとなります。(その兆しは既に随所に出始めています!)

        誰も責任を負わない世界・・・それは醜悪極まりない世界です。そうなって真っ先に途方に暮れるのは自分自身、つまり私たち自身に他なりません。(たぶん生き延びることさえ困難でしょう。)

        | かまた | 時事関連 | 09:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
        私たちはいつも「何かに加担」している。
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          これも当たり前のことで、私たちの日々の生き方や考え方、立ち居振る舞いの一つひとつが、(たとえ自意識が希薄であっても)客観的に見ればれっきとした「自己表現」でしか有りません。ただそこには、人によって表現の「強弱」があるに過ぎません。

           

          例えば、当ブログでも何回か取り上げていますが、現政権発足以来(不当な圧力や利権絡みによる)「公共放送NHK」の偏向振りは目に余るものが有り、今や国民生活を危機に陥れ兼ねないレベルに達していると言っても過言では有りませんが、その時点で「NHKを見ない、信じない」という人がいるかと思えば、未だに「(公共放送だから)NHKの言ってることが本当だ」とばかりに「NHKを信じて疑わない」というNHKファンもいるでしょう。

           

          しかし、こと「森友学園問題」の扱いなどに露骨に表れている様に(姑息な情報操作を積み重ねる事で)現在のNHKが極端な「政権擁護」の偏向振りを示していることは、実際誰の目にも明らかとなっています。(これはNHK単体では無く、可能な限りのテレビ局や他のメディアも同時に見比べてみる事で、より鮮明化します。)

          にも関わらず、依然としてNHKを支持し続け、そこで提供される情報を鵜呑みにし続けるという時点で、その人は「(NHKを媒介として)現政権を支持する態度を社会的に表明している」ことになります。それは言い換えれば「現政権の補完勢力の一員」にされているということです。

           

          これはほんの一例を挙げたまでで、ただ「テレビ(番組)を見るか見ないか」という、極めて日常的でプライベートな事柄であっても、私たちはそこで「社会に向けた自己表現」を無意識無感覚に行なっているという事ですから、一日を通して見ればそこでは数限りない潜在的な意思表示(=支持=加担)が行われているということになります。

          つまり私たち国民は「直接的な行動」をしていないから「加担していない」というのは体の良い「錯覚」に過ぎず、場合によっては「何もしない、何も言わない」ことを以ってさえ、それが「何らかの(消極的な)加担」であることは間違い有りません。

           

          私が敢えて申し上げたいのは「後で泣き言をいうのは、やめて欲しい」ということです。おそらくそれらは「自分は知らなかったし、まったく関わってもいない。完全な被害者だ」というようなことだと思いますが、子どもであれば確かにそうでしょうが、大人の場合それは「無し」です。何故なら「知る機会は幾らも有ったし、判断の材料も猶予も十分有った」からで、唯一後悔する原因が有るとすれば「損得勘定を誤った」ことぐらいでしょうか。

           

          話は変わりますが、私は自分の父母が「先の戦争」について多くを語ろうとしなかった理由は、最低限「加担したこと」を認めるだけの知性と良心を有していたためだと今でも思っています。(それ故、私は絶対に加担するまいと心に誓っています。)

          何れにしても、国内状況も世界情勢も、もはや予断を許さない緊迫感と危機的状況に満ちています。そうした中で今、正しいと信じる方向に「加担」しておかないと、その人は後でしっかり後悔する事になると思います。

          | かまた | 時事関連 | 10:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
          自民党は終わった。国会で究極の暴挙!
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            国会の場において何を以って「究極の暴挙」とするか。それは「議会制民主主義」の根幹を踏みにじる事に他ならない。例えばあの手この手のからめ手を使い、のらりくらりと言い逃れに終始し、詭弁を弄してけむにまくと言うのなら(たちは悪いが)まだいい方だが、今回は違う。衆院厚生労働委員会の場で自民党の丹羽英樹委員長自らが、森友学園問題に関する野党議員からの質問を「議題に関係の無い質疑」として一蹴し、答弁を求められた安倍総理の逆ギレに露骨に加担したばかりか、何を思ったかその日の予定には無かった法案の強行採決という暴挙にまで及んでしまったのだ。これは「議会制民主主義」が既に政権与党である「自民党」によって破壊されてしまった事を意味している。

            関連記事(外部リンク)はこちら→ http://lite-ra.com/2017/04/post-3071.html

             

            独裁政権を望むならば別だが、あくまでも「国民主権」「民主主義」が良いのならば、今すぐ安倍政権と自民党(及びその補完勢力)を政権の座から引きずり下ろすしかないだろう。

            | かまた | 時事関連 | 08:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
            私たちは当たり前の世界に戻ります。
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              「物」というものは、それが仮に生活する上での必需品であっても、そのもの自体が「無尽蔵」であることが分かっているなら、ただ同然の値段で得ることが出来たとしても何の不思議も有りません。

               

              しかし例えば「金(ゴールド)」のように元々産出量が少なく、供給量が頭打ちと考えられるものでは、その需要に応じた価格設定が為される事は、これまた何の不思議も有りません。また、このように需要と供給の関係に一定の「不変性」があるものでは、価格自体もある程度「固定的」であって然るべきでしょう。

               

              一方で、諸条件により「生産量や産出量(=供給量)」に変動が見込まれるものに於いては、結果的に時々の「需要と供給のバランス」が変化するため、調整の追いつかない部分に於いて「価格変動」が生ずるのも、また自然なことと思われます。

               

              と、ここまで「当たり前の感覚」を以って「当たり前のこと」を書いたつもりです。そして、これにもうひとつの「当たり前」を付け加えるなら、「物の売り買いとは元々等価交換の認識のもとでの物々交換の代用として、価値の固定化された通貨を利用することを前提としている」ということだと思います。

               

              そう考えると、私たちの中では「(相対的に)お金の価値が短期間で上がったり下がったり」すること自体が、非常に違和感を覚えずにはいられません。何故ならそれは「需要と供給」に関係の無いところで「物の値段が上がったり下がったり」する事と等しいからです。しかもそれらは私たちと関わりの無いところで勝手に行われているのですから、私たちはある意味「それに振り回される」しか有りません。

               

              例えば村落の中で行われる物の売り買いの形態や概念が、国や諸外国という規模では通用しないとでも言うのでしょうか。そんなことは有りません。売り買いは売り買い、取り引きは取り引き、同じ人間同士の営みに違い有りません。ただ、お互い顔の見える村落の中では悪い考えを持つ人が少なく、広域になるほど、その比率が上がっているだけの事ではないでしょうか。

               

              ただ今になって一つ思うことが有ります。それは私たち人間が「何が当たり前なのか」を、心底骨の髄まで染み込ませるためには、それこそ(歴史的に)何千年も掛けて「異常極まりない世界」を、これでもかと言う程に体験する必要があったのかと言われれば、確かにそうなのかも知れません。

              しかし幾ら何でも「もういい」でしょう。今や(一部の完全にイカれた人々を除けば)多くの人々が「当たり前の世界」を切望しています。

               

              その世界では「子どもでも分かる」簡単な仕組みで、物が売り買いされることでしょう。

              | かまた | 時事関連 | 12:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
              冷静でいられる時間は1日3%だけ?
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                ※本日の記事は極めて霊的性格の強い内容に付き、霊的に疑念をお持ちの方、影響を受けたくない方々にはお薦め出来ません。その旨あらかじめお断り申し上げます。

                 

                 

                この数字は平均的な人間のそれを示したものではなく、霊界の見立てに拠れば、人間が1日の内で冷静(=理性が先行、主導する在り方)と言える時間が3%も有れば「上出来の部類に入る」と言っているのです。つまり大方の人間は1日の内、冷静さが保たれている時間など「無きに等しい」という意味になります。

                 

                私は今を遡ること40年前にこの話を聞いた、というか知った時、愕然としショックを受けたのを覚えています。1日24時間の3%と言えばたかだか43分12秒、並の人間にとって「人間らしい振る舞い」をすることは、その僅かな時間さえも難しいということですから当然です。

                私はこの話を瞬時に「真実」と認識し、そこから私の(自分自身に対する)挑戦が始まりました。

                 

                この衝撃的な話には、更に衝撃的な続きが有ります。それは「人間はある程度の霊層に到達しなければ、自分の言葉(=自力)で話せない」というものです。これはどういうことかと言うと、世の中のいわゆる平均的な人間が日常的に話している言葉のほとんど全ては「自力で発している言葉ではない」という意味です。果たしてどれだけの人がそれを「事実」と受け止める事が出来るでしょうか。また、自分の言葉を自分が発していないとすると、いったい誰が発しているのでしょうか。

                 

                それらは人間自身がこれまで自我(=自己中心)思想を発動させるたび、無意識無感覚のまま内部に作り続けてきた無数の「自我霊、想像霊と呼ばれる潜在自縛霊」によるものとされています。その特徴は一つひとつの思想、一件ごとの状況に対してそれぞれ「一体の霊」が作られ、以後同様の状況が訪れるたびに「人間に代わって言葉や行動を制御する」というもので、普段は腹部付近に位置し、要請が有ると延髄付近まで上昇して言語中枢を操ります。

                 

                つまり、その状況を客観的に見れば、人間が「過去の自分に操られている」という意味を持つことになり、ただ過去と同じことを繰り返すばかりで、少なくとも目の前の現状には何ら対応出来ていない事になります。即ちそれが内部霊による「霊憑(がか)り」の特徴ということです。

                 

                ですから、そういう状態にある人の話を聞いていると、その特徴がよく表れているものです。そういう人は過去と似たような状況になると、毎回判で押したように同じ言い回しで同じことを言います。その主張は前回と(気持ち悪いぐらい)同じもので、まったく何の進歩も進展も見られません。そして必ず同じ失敗をします。

                それは人間が「過去の自分(の過ち)に支配された姿」に他ならず、ただ霊層が低いため言葉が使えない本人に成り代わって「自我霊や想像霊」にそれを代行してもらっているに過ぎません。(逆に「彼ら」の働きが無ければ、この時点で人間は「人間らしい体裁」さえも保てていないはずですので、むしろ感謝すべきです。)

                 

                この状況は一見すると「無限サイクル」のように思えますが、唯一ここから脱出して霊層を上げ、自らの言葉を取り戻す方法が有ります。それは「無駄口を慎むべし」と心に誓い、それを(文字通り)黙々と実行することです。それは言い換えれば「不言実行」を自らの信条(ライフスタイル)とすることです。それは「必要な期間」継続する必要が有ります。それはもちろん「安全圏まで霊層を上げる期間」という意味です。

                何故そうする事が必要か?それは実際に行なって見れば「すぐに解る」ことです。

                 

                因みに幼少期に於ける「ナンで?どうして?」などの言葉は概ね本人の発するものです。ですから「言葉を取り戻す」という表現となります。

                | かまた | その他 | 11:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
                「人間性」とは何か
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                  日本には現在「日本国憲法」という基本理念が存在し、それに基づいて「国の体裁」を整え「国の運用」を行なう事が正しいとされています。

                  更には「日本国憲法を遵守する個々の日本国民の人物像」としては、それらが「相応の人格や品位を備えた人々」である事が前提とされています。(その証しとして憲法と連動する位置付けの「教育基本法」には「人格の完成を目指す」と明確に謳われています。)

                  そしてこの「人格の完成」とは言い換えれば「一定の人間性を確立し維持する」事に他なりません。つまり、そうでなければ「良い国、まともな国、ひいては平和で安定的な世界」は実現出来ないとされているという事です。

                   

                  このように憲法という「国家の基本理念」と不可分であり、不可欠のものとして「人間性」を捉える事によって、現社会の問題の本質が改めて浮き彫りにされてくる様に思います。それは当ブログでも何度も指摘してきたように、私たち国民の間に蔓延する「思想の紊乱、道義の廃頽」であり、それを言い換えれば「人間性の著しい欠如」となり、それが全ての問題の本質であり、核心部分と断言して良いと思います。

                   

                  例えば憲法では、仮に「人間性が著しく欠如」しているからと言って、その事で「人権が損なわれたり差別を受けたりする事は無い」旨明記されています。また「人間性の著しい欠如」を以ってしても「思想や信条、表現の自由」などは保障されています。

                  しかし第十三条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 」と有るように、自由や権利と同時に他人や社会に対して実質的な損害や迷惑の及ばない事が求められています。

                   

                  「人間性の欠如」とは言い換えれば「自己中心思想」の事ですから、憲法上は(人権擁護の観点から)「それを持つなとは言えないが、周囲に実害が及ばない様配慮されたし」といったところでしょうか、何れにしてもそれを推奨したり、特に容認している訳でないのは確かです。

                  にも関わらず「思想は個人の自由、憲法で認められているから」とばかりに、「憲法の本来の主旨」にそぐわない思想と行ないを全快にしている人たちが多数を占めるようになった為に、あらゆる分野での社会システム自体がその論理的矛盾から「機能不全」を起こしているというのが、現状と思われます。

                   

                  従って今後、「社会の改革」を目指す人々の論調は(言葉は違えど)主旨として「人間性の回復、復権」に集約されて行くでしょう。何故なら「そこにエネルギーを投入しなければ、社会に蔓延する病巣の根本治癒は不可能」だからです。(憲法を読み解く上でもそれが正論なのです。)

                  | かまた | 時事関連 | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  世の中には二通りの人がいる
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                    世の中には二通りの人がいて、それは逆に言えば「二通りの人しかいない」ということになります。

                    まず一つには「(鬱蒼とした藪の中に)道を切り拓く」人がいて、その後に続いて「道を拡げ踏み固める」人がいます。

                    これは「分業」が良いと思います。何故なら「道を切り拓く」ためには相応の知見とエネルギー、そして何よりも相当の勇気が必要となり、誰もがその要件を満たせる訳ではないからです。

                    一方で「道を拡げ踏み固める」作業では、危険度は低いものの、地道で丹念な仕事振りが求められ,微に入り細にわたる心配りが無ければ安全安心が確保出来ず、せっかくの道を「活かし切る」ことが出来ません。

                    この事は見方によっては、私たちの社会を理想に向かわせる力として「智慧と勇気」と「愛と情け」の合力が望ましいことを表している様に思われます。

                     

                    この事を私たちの現状に当てはめて見るならば、確かに「社会の閉塞感」を打ち破り、切り拓こうとの「真っ当な動き」が随所に感じられるのは事実ですが、惜しむらくは「後に続こうとの動き」「道を拡げ踏み固める動き」と、それに伴うパワーがまだまだ不足しているように思えてなりません。

                    実際に「道が道である」ためには、後に続く私たちがそれらを「本物の(使える)道」に自らの意思でして行く必要が有る様に思います。それが誰のためかと問われるなら、真っ先に「私たち自身のため」に違い有りません。何故なら(その道とは)私たち自身が利用する道に他ならないからです。

                     

                    このように「切り拓く人」と「踏み固める人」が同じ目的のために「同等」であり、お互いに感謝し合える(至極当たり前な)社会が、私の望む社会像でもあります。

                    | かまた | 時事関連 | 11:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    今世の中で起きている事を総括すれば
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                      社会構造はすべてシステム化されており、その社会に身を置くすべての人は老若男女を問わず、個々のシステムの何れかの部分(パーツ)と職業的かまたはそれに準じた何らかの利害関係で繋がっているものと考えられます。これは極めて当たり前の構図です。何故なら仮に(社会と繋がる事に)「利得」が一切無く、逆に「損害」しかなかったとしたら、その社会に身を置く意味すらないからです。

                      ですから社会が成立、存続するためには(その社会を)構成する人々に対する明確な「利得」の提供が不可欠であるのは言うまでも有りません。

                       

                      ところで健全な社会のシステムは、その中枢から枝葉の如く伸びた末節に至るまで、どの部分での関わりに於いてもすべて「社会全体に対する貢献の一役を担う」という意味を持ち得るものであり、そこに正当な評価が為されると共に正当な対価がもたらされなければなりません。何故なら社会ではその部分での正当性が失われる事により、たちまち不公平や不平等といった深刻な問題が生ずるからです。

                      この社会に於ける不公平、不平等は多くの場合(権力の乱用等によって)「意図的」に作られます。何故なら、自然発生的な場合にはすぐに是正の方向に向かい、常態化しないはずだからです。

                       

                      しかし気が付けば私たちの社会は、いつのまにかこの「不公平、不平等」を容認する方向へと向かわされています。その一番の要因は、「それは自由競争による勝敗の結果であり正当なものである」という理屈であって、それを人々に刷り込むために(実生活とは関係の無い)「スポーツなどでの勝負、勝敗」をやたらと喧伝し、勝者を称賛する方法が用いられています。(「オリンピックは参加することに意義がある」はもはや死語です。)

                      政界や財界に於ける「権力闘争」も、こうした「勝ったもん勝ち?」の如何わしい空気の中で正当化される事は当然ですが、更にはこの(スポーツになぞらえた)勝ち負け自体が始めから(まともな勝負とも言えない)「出来レース」に過ぎないということです。(政財界の二世、三世など何の勝負もしていません。)

                       

                      つまり「自由競争」と言いながら「出来レース」で勝った事を理由に「勝者、敗者」の差別化を(勝者自らが)容認し、社会の「不公平、不平等をも正当化」してしまうという危機的状況にも関わらず、(スポーツファンであるが故に)この際権力に擦り寄るか(それとも潔く)負けを認めて惨めったらしく生きるかの選択肢しか持てない、というのが「今世の中で起きている事」です。

                       

                      このようなインチキな社会はまもなく崩壊します。何故なら「中身の無いがらんどう」だからです。その後にみんなでしっかりと身の詰まった社会を再興するとしましょう。

                      | かまた | 時事関連 | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
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