HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
音楽は「癒やしのツール」じゃない
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    と思っています。「癒やし」とは、溜まったストレスを解消したり吐き出させたりして、スッキリサッパリさせてくれるようなもので、お酒を飲んだり美食をしたり、或いはマッサージなどの五感に心地よい刺激や快楽を感じさせるような、いわゆる「麻薬的な効果」によって緊張状態を緩和させるものだと思います。そしてその多くは多分に「対症療法」的なもので、普通はストレスや苦痛の原因そのものとの「論理的な因果関係」を必要としません。(それ故即効性があるとも言えますが。)しかしそれでは、私たちは「ストレス」と「癒やし」の間を永遠に往復しなければならなくなります。

    対して音楽は(音楽家自身にその自覚と認識が在るかどうかは別としても)、本来「ストレスの根源」そのものに働き掛けるための機能を持ったものであり、そこには「高度なメッセージ」が書き込み可能な状態となっており、それは(歌詞が有ろうと無かろうと)「音楽言語」によって実現されます。そして結果的には「音楽家相応のメッセージ」がそこに書き込まれることになります。
    何故そんなことが可能かと言うと、それは「音楽の構造」そのものが(少なくとも)「人間及び人間社会の構造」を模したものとなっているからです。(もちろん、イメージとして自然や宇宙の構造とまで話を大きくすることも可能でしょうが、それを証明する手立てが無ければそうする意味が有りません。)

    ですから音楽は私たちの「現状」を表現することも出来れば、また私たちの「理想(=在るべき姿)」を表現することも出来るということです。
    もちろん「単なる癒やし」という作り方や使い方も可能ですが、それではもったいない気がするので私は余り好みません。
     
    | かまた | 作品全般 | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
    「転調」の必要性と必然性について
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      「転調」とは、楽曲の調性が曲の途中で変更される事を指すが、目的としては、音楽を構成する他の諸要素に対して用いられる変更と同じく、曲の進行に対して「適切な変化」をもたらすためのものである。しかし、今までドレミのドとして主役を担っていた同じ音が、次の瞬間から例えばファの半音として極めて地味な存在となる様な劇的な変化は「転調」ならではのもので、楽曲総体として見ると、拍子が4拍子から5拍子に変更された時以上の衝撃的な事件と言っても良いだろう。それは取りも直さず「楽曲」というものが通常は調性に対して高い依存度を有していることを示している。つまりノーマルな曲想をノーマルな手法で表現する限り、調整は楽曲と不可分で固定化されたものと考えて良いと思う。何故なら楽曲には流れや変化に先んじて一貫性を表す要素が必要で、その最たるものが調性と考えられるからだ。

      ところで「転調」するには正当な理由が必要だ。つまり「何故転調した方が良いのか、しなければならないのか」ということだが、特にインスト(器楽)アンサンブルに於いては楽器ごとに「オイシイ音域」が異なり、主役となる楽器に対して適切な調性を選択する必要が生ずるため、転調する場合がある。もちろんその場合も転調による一定の曲想の変化を想定して、それと抱き合わせの形で主役を交代させるということになる。
      一方で通常の歌唱曲やソロ楽器による曲ではその必要は生じないが、それでも曲想を盛り上げるテクニックのひとつとして、半音乃至1音程度の転調は効果的である。つまり「転調」は音の強弱や増減、リズム変化等に頼る事無く、コンスタントに「盛り上げ効果」を演出出来るということである。

      上記はごくノーマルな「転調理由」を示したに過ぎない。しかし転調にはそうでない理由もある。それは「楽曲自体の成り立ちが転調と不可分な構造」の場合である。それは言って見れば「転調」そのものがテクニックというよりも、むしろ「音楽言語」に近いものとの認識ということで、それは例えば「旋律(メロディ)」の元となる「旋法(モード)」を「言語」と見なす様なものである。
      そして自分にとっての「転調」とはまさしくこの「言語としての転調」であり、実は二十代からずっと自分の音楽の中核を成して来たものだ。(作風からして変拍子よりも優先順位が高いのは明らかだと思う)
      しかしこれには全く問題点が無い訳ではない。それは即ち「本来調性で維持されるべき楽曲の一貫性をどうするか」ということであるが、もちろん一貫性を放棄する訳には行かない。自分はその答えを「バランス感覚」に見出している。思えば楽曲上のバランスとは、調性を動かす際に最も必要とされるものかも知れない。だから自分が音楽を「バランス芸」と見るのは、そのような長年の経緯が影響している可能性があると思います。

      | かまた | 作品全般 | 21:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
      頂いた感想にお応えさせて頂きます。
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        皆様、明けましておめでとうございます。
        旧年中はたいへんお世話になりました。
        本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

        ところで、今回は支援サイトの方から頂いた感想にお応えさせて頂きたいと思います。
        以下、転載致します。

        *************************************
        HALのKURSKに入っている曲の最後は全部「ジャーン」と気持よく終わっている。
        (途中省略)
        これはいかにもロック!と思うけど、
        クラシックの曲も結構「ジャーン」で終わっている。
        HALの音楽は紛れも無く「ロック」だけど、
        あちこちにクラシック音楽の要素が感じられる。
        (途中省略)
        多分普通にハードロックと呼ばれるジャンルの音楽よりも、
        クラシック音楽の方が聴き手の想像力にうったえかけるようだ。
        (途中省略)
        クラシックの「五感に語りかける」要素がKURSKに使われている。
        だから私達は、広い景色や温度、匂いなどもKURSKから感じ取ることが出来る。
        それでその「ジャーン」なんですが、
        私個人の感想だと「やりきった」とか「精一杯弾いた」とか「力を出しきって、最後まで力を抜かない」という印象。
        だから最後をジャーンにするのは大正解!
        *************************************

        改めてご説明致しますと、フェードアウトを用いない最大の理由は、ライブで演奏する際に「ヘタに悩まずに済む」からです。
        それから、フェードアウトは「フェードアウトという立派な終止形」のひとつですが、敢えてそれを使う理由が見当たらなかったということです。例えば「クルスク」は過去の情景描写ですが、エピローグの「Hope」に限り未来を示唆したものとして、唯一フェードアウトの対象となっています。

        それからロックやポップスの多くは「感情表現」や「メッセージ」など、主観的な視点で構成されている事に対して、クラシック音楽の場合、宗教的題材や風景、情景、人物描写など、主に客観的な視点が用いられる事が多い様に思います。もちろん作者の目を通して見ているので主観が全く入らない訳では有りませんが、意図するものがそうだという事です。
        ですから自ずと従来のロックやポップス的には「共感」が求められ、クラシック的には「イマジネーションの提供」という形が多く見受けられる様に思います。

        それと最後にある「やりきった感」はライブの場に於いて特に重要な要素だと思います。何故なら、そこに観客とプレーヤーのコミュニケーションのピークが来るのが常だからです。ですからライブをイメージしてCDを作ると、当然そうなります。

        そのようなことで、今年もよろしくお願い申し上げます。


         
        | かまた | 作品全般 | 12:18 | comments(2) | trackbacks(0) |
        曲に於ける自由と自然について
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           曲作りに於いて自分の中では自由と自然はよく似ている。言うまでも無く曲は時間軸に従って進行して行くものだが、その際最も心掛けているのは「不自然でない事」だ。不自然という事は即ち「ぎこちなく、わざとらしい」という事で、これは曲中の世界から急に現実に引き戻される感があって寝覚めの悪さを伴うものだ。

          ところで一般的な曲は古典的な単一の旋法と調性を有している。これは曲に対して絶対的な安定感を提供する、謂わば「土俵」のようなものだ。例えばカメラのファインダーを覗いたような、ある特定の視野を表現するのに威力を発揮すると思われる。だがその一方で、見渡す限りのアフリカのサバンナのような情景を果たして土俵で仕切って良いものだろうかという疑問も湧いてくる。それはもしかして「安定」とかとは別の次元のものではなかろうか。

          そんな時、自分は自由に振舞って見る。安定上必要な制約を取り払って自然に身を任せる。そうすることで初めて曲のあるべき姿が浮かび上がってくる事もままあるように思う。が、もちろんそれだけでは収拾が付かないので、きちんとバランスは取って行かなくてはならない事は言うまでもない。そうしないと曲は終われない(笑)。
          | かまた | 作品全般 | 11:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
          ディティールの話
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            自分は音楽云々の話の際、映画を引き合いに出す事が多い。場面とか時間とかコマ割りとか、何かと共通点が多いと感じられるし、もちろん(無音部分も含めて)映画には音楽そのものも欠かせないという面もある。 その意味でいっその事アルバム「KURSK」を映画的に聴いて頂いても構わないと思っている。

            ところで映画(ドラマ)を見ていて時折興醒めすることがある。それはほとんどの場合「ディティール」に関する事である。映画の場合のディティール(細部)とは、自分が思うにはある種のリアリティによって、見るものを作品の中に引き入れ、釘付けにする役割を担っているように思う。無論、意味のある誇張や省略はあって構わない(というか必要だ)が、「在り得ない」事はなるべくなら避けて頂きたいと思う次第だ。

            例えばアクション物でヒーローの使う「無限に弾の出る30連発式サブマシンガン」とか、戦争物で戦艦大和の「発射しても銃身の後退しない25mm対空機関銃」とか、「アメリカ製M48なタイガー戦車」とか、時代劇の「発射煙が蚊取線香みたいな火縄銃」等々・・・、見ていて切なくなるものもある反面、メル・ギブソン主演の「パトリオット」などはアメリカ独立戦争当時の「フリントロック式マスケット銃」を正確に再現しており、黒色火薬による盛大な発射煙は圧巻である。(自分だけ?)

            と、長々と映画の話をしてしまったが、実はこういった事は、音楽にもそっくり当てはまるのではと思っている。自分もディティールのしっかりした音楽を今後も目指して行こうと思う次第であります。
            | かまた | 作品全般 | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
            曲をイメージするという上での当たり前の事(2)
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               例えば「或る悲しい一日」では尺八奏者は初めから自分自身を想定しているし、そもそも尺八の曲を作るつもりで曲作りを始めた。更にギターが主旋律を行くところはギターをイメージして書いているので、尺八に適した旋律とギターに適した旋律が交互に入れ替わっていることになる。(他の楽器で代用不可能という意味ではない)

              一方でオルガンパートに関しては、当初すべての楽曲で自分が担当することを想定していなかった事は前に書いた通りだ。これらはロックというよりは、むしろ訓練の行き届いたクラシカルな演奏家に適した作風と言えるのではないかと思っている。変な話、もし自分が弾く事を想定して曲を書いていたら、こうはならなかったのではと思う。何故なら自分は「訓練の行き届いたクラシカルな演奏家」ではないからだ。そんなこんなで正直たいへんな思いをしたが、録ったものを聴きなおして見るとちゃんとロックしているから不思議だ。曲の成り立ちはどうあれ、やはり自分で弾くべきだったのかと改めて思い直した。

              7年の歳月に亘る紆余曲折を経て、アルバム「KURSK」は結果的に自分自身の範疇を超える作品となった。様々な形で制作に関わって下さったすべての皆様に、この場をお借りして今一度感謝を申し上げます。
              | かまた | 作品全般 | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
              曲をイメージするという上での当たり前の事(1)
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                 今回の収録曲にも該当する事ではあるが、曲をイメージ(大概は旋律の事)する際、肉声を含めた楽器音でイメージする事が多いというより、そうでなくては困ることになる。何故なら作曲されたものは全て演奏可能でなければならないからだ。更にはより自然な響きでなければ曲自体の必然性に支障をきたす。平たく言えば無理矢理感や違和感を聴き手に感じさせてはならないという事だ。

                各楽器にはそれぞれ特性がある。これはそれぞれが得意、不得意を有しているということで、甚だしい場合には可能、不可能となるが、それ以前に聴こえ(=響き)が良い、聴こえがあまり良くないなどの差異が生じる。そのため曲のイメージと担当する楽器は、あらかじめリンクしていた方が良いように思うのだ。

                更には、楽器毎に特定の演奏者を想定出来るに越したことはない。そうすれば個人としての技術力や表現力の特性にまで踏み入れた上で、より緻密なイメージを構築することが出来るからだ。一般的にバンド活動としての曲作りではそのような事になっているのではないかと思う。
                | かまた | 作品全般 | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
                三人のキーボーディストの件
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                   別にアルバムに収録されている曲を三人で手分けして弾いているという意味ではない。アルバムの音は私が一人で弾いている。ではどういうことかというと、アルバムの企画がスタートした時点ではキーボードは前作HAL&RING=ARCHEMYでオルガンを担当した松本かよ氏に引き続き担当して頂く予定であった。しかし後日、諸事情によってそれが叶わない事となり、急遽キーボードを探す事となった。幸い快諾してくれた人物がいた。以前、共にバンド活動を行った事もある渡辺まどか氏である。(テクニカルアドバイザーとしてスペシャルサンクスに記載)これで事は順調に運ぶかに思われたが、そこでまた思わぬ事態が生じ、この話も消滅した。どんな馬鹿でもこの辺りで気付くべきと思うが、幸いな事に私もここでようやく気付いた。「やはり自分で弾く以外にないのか・・・」

                  楽曲の中でライブ時にサポートキーボードを必要とする形態が存在するのはこうした経緯があった為で、実は企画時には5人編成のバンドだったのだ。
                  | かまた | 作品全般 | 13:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  フェードアウトじゃなくて
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                     公認支援サイトの人が曲の感想でイイ味を出してくれている。

                    ところで今回のアルバムでは、曲の構成に関して2つのポイントがある。
                    ひとつはフェードアウトを使わず、通常の終止形で終わるということ。
                    もうひとつは、主要4パートは出来る限り重ね録りをしないということ。

                    フェードインやフェードアウトの効果は、むしろ映像作品などで顕著です。
                    必要に応じて意図的に用いるべきものという事では音楽も同様ですが、
                    音楽の場合特殊な効果というより、若干パターン化の傾向があるようにも思えます。
                    パターン化という意味では、多重録音などにもそう思える余地があります。

                    つまり何となくそうしたとか、何となく無難に思ったとかの、「何となく感」を排除し、
                    必要なものが整然と存在し、不要なものは存在しないピュアな音の世界。
                    それもまた「ロック的なアプローチ」と言って良いのではないかと思います。

                    ということで、本作のフェードアウトはエピローグのみです。
                    ここでは絶対に必要な効果で、私自ら編集致しました。
                    | かまた | 作品全般 | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
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