HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
どうする?萩生田(はぎうだ)官房副長官
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    5月26日の記事で警告した通り、とうとう悪い意味で「時の人」となってしまった萩生田(はぎうだ)官房副長官。(リテラの関連記事はこちら)

    東京24区(八王子市)選出の内閣官房副長官は、もはや「沈没船」から海へ飛び込むタイミングを逸し、残念ながらこのまま船と運命を共にする道を選んだという事だ。

     

    とにかく今回の「森友学園、加計学園、共謀罪」といった一連の案件によって、安倍晋三、菅官房長官を始めとする多くの政治家や官僚らの「人となり」が物の見事に浮き彫りにされてしまった事は間違いなく、その多くは「とても子どもには見せられない、聞かせられない」といったレベルの極めて(人として)稚拙で非道徳的で醜悪なものだった。その上なお、この人々を容認しようとするならば、それ自体が「反社会的行為」という烙印を押されても致し方ないのではないだろうか。

     

    つまり今、最も重要な事は「どんな社会にしたいのか」について、私たち国民がしっかりとイメージを持ち、その意思をはっきりと示していく事に尽きると思う。(逆に言えば、それが足りないから一部の人間に勘違いさせ、好き勝手にされることになると考えられる。)

    | かまた | 時事関連 | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
    なぜ「安倍政権」はしぶといのか?
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      この政権は本当なら(=従来の常識に当てはめれば)少なくとも一年は前に終わっているはずのものが、なぜ死に体のまま政権として未だに醜態を晒すハメに陥っているのか・・・。今になって思えば、それは後世のための「見せしめ」としての意味でしか有り得ない。

       

      つまり「こういう思惑や企みを持つと必ずこうなる」といった物事の因果関係を、もはやそれ自体がデフォルメする必要も無いほど「わかりやすい構図とわかりやすい登場人物」を以って世の中に知らしめる事こそが、今彼ら(=安倍政権とそれを取り巻く人々)が依然として存在出来ている唯一の理由となっている。(そういうことでもなければ、あれだけみっともない「悪あがき」をいい大人がして許されるハズも無い。)

       

      当然ながら今後、このように権力者の私利私欲に塗れた政治というものは現政権を最後として、二度と再び存在し得ない世の中となるだろうから「悪政の末路を記憶に留める」という意味に於いては、現政権にはなるべく派手な「ハードランディング」であって欲しいなどとは敢えて思わないにしても、その可能性は無きにしも在らず、といったところだろう。

      | かまた | 時事関連 | 11:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
      奇しくも「概ね警告した通り」だろう
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        昨年5月には「ジジイは次世代の若者の為に突撃しろ」という記事を書き、7月には「(不正選挙の)沈没船に乗るな」という主旨の記事を書いた。更に今年の元旦には「いよいよ瓦解、崩壊が始まる」と警鐘を鳴らした。そしてこれらの意味するものには、当然ながら現在の日本の「如何わしい権力構造の終焉」も含まれているということだ。気が付けば事態は森友学園問題から加計学園問題へと移行し、果たして(一強と言われる)政権の中枢で何が起きているのかは、もはや「誰の目にも明らか」であろう。

         

        取り分け東京24区(八王子市)選出の内閣官房副長官、このところ総理の後ろに立っていても(文書で名前を出された関係か)「目は落ち着きなく泳ぎ、心此処に在らず」といった様子で、地元の一選挙民として非常に心配している。悪いことは言わないので今すぐ海に飛び込んで「国民側」に付くコトを熱望する。まだ50代前半なら(一定の禊ぎを受ければ)今からでもまだやり直せるんじゃないのか?

        もちろん「船と運命を共にしたい」と言うならそれも本人の自由だが、本当にもう時間が無いぞ。それに今更ながら「機を見るに敏」でなければ政治家は務まらないと思うのだが。

        | かまた | 時事関連 | 08:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
        政治家が「鉄砲玉」で何が悪い
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          もし国家が特定の人々の所有物ではなく「国民全体の共有物」であることを前提とするなら、政治はそのためにこそ行われるべきと思うことは至極当然であろう。例え実質がそうした「建前」と異なっていたとしても、それは「古き悪しき因習」によるものであって、それ以外に何ら正当な理由は存在しない。

           

          然らば政治家たるものはそうした「国家の理念」を実現させるために数々の難関を突破し、前途に立ち塞がる障害をことごとく排除しながら進むしか行く道は無いし、そもそもそれが仕事である。然るに現在の国政、県政、市政などに携わる政治家の内、その事をわきまえた上で覚悟を以ってその任に就いている者がどれほどいるだろうか。(皆無とは言わないまでも、甚だ心許ない。)

           

          現実の課題として最も障壁となるのが「利益相反」であるのは想像に難くない。これらは旧態依然とした巨大な権力構造や多分に自己中心的な新興の金権主義者などによって、(国民全体のための)健全な社会構造に対する軋轢や破壊の形でもたらされるが、多くの場合「裏から権力の中枢に手を回して利権を掌握する」という常套手段によって、余程の覚悟を以って事に望まなければそれを「阻止する」ことは難しいだろう。そうした末に「司法、立法、行政」がそれぞれ分断され、遂には「三権分立」が機能不全に陥ってしまった状態が現在と言える。

           

          このような謂わば「巨悪(=巨大な理不尽)」に立ち向かい、事態の是正矯正を図るのが並大抵の事で無いことぐらいは解る。如何に政治家として逸材であっても(単独では)厳しいだろうし、下手をすれば失脚の憂き目に会うだろう。だから政治家は(時として)「鉄砲玉」で良い。仮に跳ね返され、追い落とされても次から次からタマの続くまでそれこそ何十人、何百人という政治家が後から後から事に当たれば良いではないか。

           

          国会の場か何かで「皆さん、国家のために命がけの自衛隊の皆さんに謝意を表しようではありませんか。」などと呑気なコト言っている場合じゃないよ。まったく。

          自衛隊員に先駆けて「命がけで内外の巨悪と向き合い、国民の生命と財産を守る」のが政治家の役目ではないか。頼むから国民の「鉄砲玉」になってくれ!

          | かまた | 時事関連 | 17:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
          「発想、発案」の質と正当性について
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            これらは脳ミソの出来不出来や知識や情報の集積度には(残念ながら)関係有りません。つまり如何に頭が良くて物識りであっても、発想が貧弱で誤った選択しか出来ない「愚か者」はこの世にゴマンといるということです。

            何故なら、そもそも「質が高く正当性のある豊かな発想、発案(=アイデア)」というものは「霊的に担保」されていない限り持ち得ないものだからです。つまりその時点で「頭の回転速度や引き出しの多さ」は殆ど関係ないものと言え、強いて云うなら(それを他者に伝達する際に不自由を感じない程度の)国語力があれば尚良いという事でしょう。

            更に言えば、それら上質の発想の本体は元々が「イメージ(=絵図)」であって、故に一瞬で認識、把握出来る特性を持つものであるからして、尚更「頭の回転力」など及ぶべくも無いということになります。

             

            では人間に「頭の良さ」や「知識や情報(またはその収集能力)」などは不要で、それらは単なる「無用の長物」に過ぎないのかと言うと、決してそんな事を云うつもりは有りません。ただ「使いどころ」を間違えてはならないと言いたいのです。

            それら「実務的要素」は、イメージとして得られた発想や発案(=アイデア)を「具体化」する際には必ず必要とされるものであり、それは現社会でも当然そうなのですが、但しその部分がことさら他の実務的要素としての「技能、技術、労働形態など」に対して突出して価値が勝(まさ)っているという評価には疑問を呈さざるを得ません。

            この不当とも思える「ランク付け」は、おそらく現社会に蔓延している大きな誤解と、現実にまかり通っている大きな誤用によってもたらされていると思われます。

             

            それは「世の中は(その能力と権利と資格を有する)頭の良い人間たちの発想、発案によって形作られ成り立っているという誤解と誤用」が実際に為されているという現実に有ります。そしてこの件については、もはや論じる意味すら無く、国際社会や日本社会の歴史的経緯と現状を見ればそのまま「(学歴偏重主義による)頭が良い(だけの)人たち」には、権利や資格以前に「その能力に欠けている」事は明らかで、まさしく「貧弱な発想と浅はかな選択」の結果として現代社会に恒常的な混乱と閉塞感をもたらしています。

             

            その理由は冒頭でも説明した通り「霊的価値」、言い換えれば「人間的価値」が余りにも低い事によって「私たちの社会にとって必要十分となるイメージの持ち合わせが無い」からです。

            しかも残念ながら私たちには、そのような人たちの「霊的向上」を指を咥えて待っているだけの時間的ゆとりは有りません。

            そうなると私たちに出来る事は限られて来ます。即ち(そうした役回りを)「アイデアに優れた別の人とさっさと交代してもらう」ことです。

            当然です。(違いますか?)

            | かまた | 時事関連 | 11:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
            人間の惨状に於いては最早語る言葉も無い
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              おそらくは世界であろうが日本に限ったことであろうが、正に現在こそが私たち人類にとって「歴史上最も悪い状態」と言えると思います。それは道理として「総体として見た場合の人間はこれ以上悪くはなれないだろう」と思われるからで、その意味では今が正に「底を打った状態」と言って良いのだと思います。と言われても多くの人々にはその実感は無いでしょうが。

               

              何故私たちはそのような前代未聞の危機的状況にも関わらず、その実感を持ち得ないのか・・・。それはテクノロジーの進歩と複雑化した社会システムによって、曲がりなりにも「何か物事がちゃんと機能している」ように錯覚させられているからに他なりません。

              それは例えば、高度なテクノロジーで複雑な制御システムを搭載した先進的な車さえあれば、ドライバーの質やマナー、安全意識などどうでも良く、それを以って車社会の未来は明るいと安易に思える感覚と似ています。つまり「自分たちには理解出来ないスゴいテクノロジーとシステム」が(自分自身の努力なしに)何もかも解決してくれるものと思い込んでいるのでしょうが、ここまで行くともう或る種の「信仰」のようです。

               

              しかし本来は「テクノロジーの進歩」と「人間としての努力」とは全く別のものであって、機械やシステムに「心を吹き込む」のが人間の役割であることは、如何に社会の様相が変化しようとも一貫して変わらないはずです。それがそもそも「霊界と現界」「霊主体従」「唯心唯物一体思想」など、この世(=宇宙)の基本構造に基づくところの「人間の論理的存在意義」そのものとも言えるものです。

              逆に言えば「物に心を添える」という役割を果たそうとしない時点で、人間は「存在意義」すら失ってしまうということで、ついでに言うならその「一部始終をチェックする機能が霊界には厳然と存在する」ということですから、霊界より現界へのフィードバック(=原因に対する結果)では、当然ながらその反映を見る事になります。

               

              「物(=物事、言動)に心を添える」と言っても、もちろん「どんな心でも良い」という訳には行きません。その人なりの「人間性」に基づいた可能な限り「豊かな心」でなければならない事は言うに及ばず、それが為に人間には折りに触れ「弛(たゆ)まぬ(心の)努力」が求められる事になります。

              即ちその連続が「人の一生」ということですから、そのような目的意識を持って生きる人の数が殆ど「極限」まで少なくなってしまった現在に於いては、やはりこれを以ってリミットとし、ここを「折り返し地点」として再起、再生を図るのが私たち人間に残された唯一の道であろうかと思われます。

              そのためには「瓦解、崩壊」による衝撃さえも、この際「踏み切り台」として利用する心積もりが必要となるでしょう。

              | かまた | 時事関連 | 11:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
              気が付けば「仮想現実」と向き合う人々
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                ここでの「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ、VR)」は(能動的に仮想体験を求める)ゲームやテクノロジーの話では有りません。そうではなく人々が知らず知らずの内に「真実や現実を誤認して、誤ったイメージをそれと信じ、それに基づいて生きようとしている有様」の事を言っています。

                それについてはまず、現代に生きる人々が「何を以って真実(=現実に存在し起きている事)」としているのか、その傾向を確認しておく必要が有ります。

                 

                その昔、今よりも情報源が乏しく人々の行動範囲も限られていた時代に於いては、「物事を知る」ということは「実際に見聞する事」を意味していたはずで、仮に人づてに「不確かな噂」を耳にしたとしても、(話の出処にも拠りますが)それを即刻「事実」と受け止めることはそう多くは無かったはずです。

                しかし現代では大きく様相が異なり、「実際の見聞、直接的な経験や体験」の(真実を知り得る情報源としての)比率は遥かに少なくなり、代わって「情報提供業者(=メディア、マスコミ)」や「情報の権威や信憑性を附帯する業者(=学者、評論家など)」から(確認する術もなく)一方的に与えられる情報を以って、それを「真実」「現実」と認識するよう大半の人々が習慣づけられてきた様に思います。

                 

                また、そのような「情報提供業者」は暗黙の内に、単に「事実」を伝えるだけではなく(親切なことに)「事実とされた物事の価値判断」まで(面倒臭がりの個々人に代わって)代行してくれるようになりました。即ち重要とされる事柄については「大声で(しつこいほど)繰り返し」伝えられ、どうでもよいとされるものは殆ど「スルーされる」といった具合です。

                そしてそれら「業者側」の思惑が更に講じると、今度はそこに「脚色」を通り越してあからさまな「捏造」や「隠蔽」までも行われる場合がある事が、取り分け近年指摘されるようになりました。そうなると、そこから先はいよいよ禁断の「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ、VR)」の世界です。

                 

                何故そのような「真実をめぐって(あってはならない)情報操作」が行われるのか。それは「提供者である業者側」と「受理する側の個々人」との間に「利益相反」があるからに他なりません。つまり「利益によって動くのは業者の常」だということです。

                そうした「業者」に過度の期待をするのも酷なのですが、それよりも問題は「スマホやパソコン、テレビにかじりついてタレ流される情報の中で満足を求め、或いはそこで納得してしまおうとする人々の生きる姿勢、態度」であろうと思います。

                 

                そうした中では、自分が実際に日々の生活の中で味わい感じている自分なりの「確かな現実」が余りにも過小評価され、場合によっては(自分自身によって)踏みにじられています。スマホ画面を睨め付けながら「世の中に合わせなくちゃ」なんて・・・まったく何を言ってるんでしょう。

                そうした場合「みんなが同じ情報に踊らされている」ということのみが唯一の事実であり現実であって、その「音頭取り」をしている元々の情報自体が「仮想現実という(意図的に作られた)実態の無いもの」である可能性の方が、今の世の中では遥かに高いと思われます。

                何故なら誰にとっても「自分の足元」だけが(自分の知り得る)唯一の現実であって、それと無縁で何の接点も無いものを現実と捉え、そこに価値を求める事自体がその人にとって殆ど意味を為さないからで、そのような情報に安易に飛びつく事は逆に「自分自身を見失ってしまう」恐れさえ抱かせます。(そのようなことはもはや日常的に意図的に行なわれています。)

                 

                繰り返しますが「みんなと同じだから安心」という納得の仕方や目標の持ち方は「かなり危険」です。その場合の「みんな」とは誰なのか、それ自体が実態のあやふやな「仮想現実」である恐れが多分にあります。

                そうでなくとも人間一人ひとり、皆「直面する現実」は異なるものです。それにしっかりと対処していくことが人間にとって最も重要であることは昔も今も変わりません。にも関わらず、どうして人間はこんなにも情報如きに翻弄され、付和雷同するようになってしまったのでしょう。

                | かまた | 時事関連 | 11:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
                安倍総理のビデオメッセージだって?
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                  もはや詳細については改めていちいち書きません。安倍政権・・・というより安倍晋三その人の異常性?狂乱振り?が日増しに浮き彫りにされていくように思えてなりません。その変化の様子は人相や顔の色つやにも(テレビや写真で見ても)如実に表れています。自滅によって堕ちていく人間の末期症状とはこういうものなのでしょうか。まったくテレビも人が悪い。そんな見るに忍びない姿をどこまで中継すれば気が済むのでしょうか。もちろん最後まで出続けて人前に姿を晒している本人が一番悪いのでしょうが。

                  | かまた | 時事関連 | 12:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  安倍政権のハチャメチャ振りが「正論」の起爆剤に?
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                    ※当ブログに於ける「正論」とは、経験則や感情論ではなく「物の道理」に照らして物事を理解する在り方を指します。

                     

                    私たちは戦後一貫して、その時々の政権によってミスリードされ続けてきたと言っても過言ではなく、現在の日本の状況がそうした結果の表れであることは間違い有りません。ただ「安倍政権」以前のどの政権も、それなりに国民の顔色を窺いながら適当に機嫌を取りつつ、騙し騙しそれなり上手くやってきたという面は否定出来ません。(だから「何だかんだと言われつつも自民党」という評価に結び付いていた訳です。)

                     

                    ところがここに来て、そうした謂わば伝統的なスタンスが「安倍政権」によって一気に覆されてしまったということです。それは「現実に即した政治」とはとても言い難い、ほとんど個人的とも言える「自らの夢想や願望を無理矢理実現させよう」といったやり方(=独裁)に極めて近いものであったようです。

                    当然ですがこれでは「その時の安倍晋三の眼中に無い人々」にとってはタマッたものでは有りません。「安倍政権による政治」はこのように、既に多くの(眼中に無い)国民に大きな犠牲とリスクをもたらして来ました。これは極論を言えば、これまで「国民不在の政治」を堂々と行なってきた結果であって、そのためには(場合によっては)天皇でさえも蔑(ないがし)ろにするものでした。

                     

                    その中身たるや、別に日本が現時点でことさら弱い訳でもないのにやたらと「強い日本」にこだわり、果たしてアメリカに追従したいのか、アメリカと肩を並べたいのか、はたまたアメリカを越えたいのか、(そんな真意はどうでも良いのですが)傍目(はため)には「ナメられてたまるか!」のような子どもじみた話にしか見えません。しかしそんなコトにうつつを抜かしているために経済、外交、福祉、教育など、あらゆる政策に齟齬が生じ、国民生活が逼迫(ひっぱく)させられていることは事実です。こうなると本当に「頼むから勘弁してくれ」という感じです。

                     

                    さすがに政治がここまでヒドくなると、世の中には「正論」の風が吹き始めます。それはちょうど「現政権」との対立軸としての位置関係となりますが、裏を返せばそれは「安倍政権はそこまで(=正論を持ち出さなければならないほど)悪いのか」という話になりますが、実際「そこまで」悪いのです。ただマスコミが恫喝(と懐柔)をされてそう言えないだけです。

                     

                    皮肉にもこうした「正論」が息を吹き返し、市民権を得るまでにその声が高まってきたのは「安倍政権」の唯一のお手柄かも知れません。改めて考えるまでもなく、政治家に一定の「人格や品格」が必要となる事など当たり前の話では有りませんか。何せ国民が命と生活を預けることになる訳ですから。

                    従って私たちはこの先「正論」に照らして社会の様々な歪みを修正、修復或いは再構築して行く必要が有ります。(それを今すぐ、今日から始めるべきです。)

                    | かまた | 時事関連 | 14:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    小、中学校教員の「勤務実態」について
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                      安倍政権のテコ入れによって断行された「教育基本法の改悪」に端を発する「学習指導要領の改訂」などの影響が、思わぬ結果・・・と言うよりむしろ「予想通りの結果」を招いている。

                      文部科学省が28日に2016年度の教員勤務実態調査結果(速報値)を公表し、国が示す「過労死ライン」に達する週20時間以上の「残業」をした教諭は中学校で57.7%、小学校で33.5%に上ることが明らかになった。部活動や授業の増加が主な要因。1週間の平均勤務時間は、06年度の前回調査に比べ、中学校教諭で5時間12分、小学校教諭で4時間9分増えた。現場からは「ひどいのは電通だけじゃない」と悲鳴が上がっている。(毎日新聞 4/28(金) 23:58配信

                      当ブログに於いては以前より「教育基本法の改悪」に対して「子どもたちや社会全般に与える悪影響」を不可避のものとして警告を発し、その撤回、無効化を訴え続けているところであるが、こちらも懸念されていた通り(当然の事として)今回、それらの影響が小、中学校の現場の教員たちを更に多忙化させ、その勤務実態をを著しく悪化させていることが判明した。(私は彼らと直接関わっているので、尚更よく判ります。)

                       

                      前述の記事では「現場からは悲鳴が上がっている」とされているが、私から見れば何故(個人的な問題ではなく)労働環境の明らかな構造的問題という認識のもとに、しかも健康や命に関わりかねない問題でもあるのに声を上げないのか理解出来ない。そのために幾つもの「教職員組合」が存在しているはずなのだが。

                      「子どもたちのためだから(我慢して)」と言いたいのであれば、それこそトンデモナイ勘違いと云わざるを得ない。いったいそういう人たちは子どもたちに何を教えようとしているのか?今自分たちが仕事でギュウギュウの目に合わされているとしたなら、それがそのまま今の子どもたちの将来となることぐらい分からないとは言わせない。何故ならそれが国民に対する「国からのお達し」であるからで、そこには方や「雇用」、方や「教育」という形態の違いしかない。

                       

                      百歩譲って「子どもたちのため」を思うのなら、悪いことは言わないので、まず「誤った教育基本法並びに学習指導要領に基づく(国策に押し付けられた人を人とも思わない)過酷な労働条件」に対して、(日教組でも全教組でも全教連でも何でもいいから)みんなして声を上げたらどうなのだ。そういう根性すら無いものに子どもの教育は向かない。

                      それにそもそも「教育によって人格の完成を目指す」のではなかったのか?

                      | かまた | 時事関連 | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
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