HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
「なりすまし人間」の見分け方
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    先日、悪魔(or悪魔的人間)は「なりすまし」「先回り」がその常套手段である旨お伝えしたが、取り分け人間に於いては(他者に対して)やたらと「道徳」や「規範」「伝統」などの言葉を持ち出し、押し付けがましく強弁を振るう人たちは全く信用ならない。何故ならそれこそが「なりすましの見本」と言えるからだ。

     

    そもそも「道徳」が人の道、即ち「人と人との望ましい関係」を示すものであるとするなら、その核となるものは「和合」に相違ない。であればそうした関係性は例え一方がそれを望んでも成し得るものではなく、まして「強要」や「押し付け」によって叶うべくもない。

     

    そうではなく、「和合」の原点が「信頼」であることを理解するなら、それこそ長い時間を掛けて「相手のために相手を思いやり、誠意を以って相手に尽くす」ことを(最初はそれこそ一方的にでも)行なう事で、相手に対して「和合の意思のあること」を相手に示し、理解してもらう必要があるのではないだろうか。

     

    しかし「なりすまし人間」には(当たり前だが)そういった考え方は微塵もなく、「道徳意識の欠如」を持ちだしては相手を批判、攻撃し、「だからダメなんだ」と言わんばかりに「道徳的な形」を押し付けようとするのであれば、その目的は「相手との和合」であるはずもなく、単に(相手の反抗心を削いで)自らの管理下、支配下に収めようとしているとしか思えない。(実際そうだろうが、実に卑怯で極めて悪魔的だ。)

    つまり、道徳を口にしながら、やっていることは極めて「非道徳的」であるのが「なりすまし人間」の特徴と言える。

     

    「道徳」に限らず、凡そ条文化されたような訓示、訓戒、更には宗教的教義、教典の類はみな、こうした「なりすまし人間」「先回り人間」の格好のツールと成り得る事を、心ある人々は識っていると思う。何故ならそれらの本質は元来「行為、行動によって伝えられるべきもの」であって、それを文字に起こした時点で既に「効率とクォリティ(=信頼性)のトレード」が行われているからだ。

     

    繰り返しになるが、「道徳」を声高に叫ぶ人に限って「道徳的な人」は少ないということ。

    | かまた | 時事関連 | 09:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
    安倍政権によって破壊されたもの
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      いよいよ明日、衆院選の投開票日を迎えますが、それに際して是非とも確認して置かなければならない事があります。すでに多くの識者、文化人と呼ばれる人たちから指摘されているように、この選挙は事実上「安倍政権の継続の是非を問う選挙」であります。

       

      即ち、安倍政権継続を望む人たちは「自民、公明、維新、希望、日本のこころ」の何れかに投票するか、または「無投票、白紙投票」でも事実上それと同じ意味となります。(自民、公明など政権側は固定票が多いため。)

      一方、安倍政権の継続を断固阻止したいのであれば「立憲民主、共産、社民、自由、無所属」などの所謂「反安倍」を強く掲げる候補者、政党を選択する必要が有ります。

      つまり親安倍か反安倍かの二択でしかなく、マスコミの誘導する「三つ巴」の構図はある種のフェイクです。何故なら大手マスコミは構造的に「権力側(=親安倍)」であり、浮動票の分散は親安倍にとって有利となるからです。

       

      ところで私たち有権者は「親安倍」にするか「反安倍」にするか、何によって判断すれば良いかと言うと、それは(良くも悪くも)2006年より現在に至るまでの第一次、第二次安倍政権の実績以外に有りません。つまり単純に安倍政権で「良くなった」と思えばYes、「悪くなった」と思えばNoであって、人それぞれ感じ方が違うのも当然ですが、その際大いに不幸なのは「(明らかに)社会や暮らし向きが悪くなった」と実感しているにも関わらず、そうした事実と「政権運営」との関連性を見い出せないまま「別に安倍政権でいいんじゃないの?」と不用意に「信任」してしまう事だと思います。(例えば、森友、加計問題(=国有財産の私物化)の解明と再発防止が結果的に自分たちの生活を豊かにするという認識に至らないなど。)

       

      そこで「安倍政権」によって国民が被った損失(と思われるもの)を再確認したいと思います。

       

      1. 教育基本法を「改悪」したことで全体主義的教育に邁進し、教職員及び児童、生徒の負担を増大させた結果、義務教育を含む教育環境を著しく悪化させ、破壊し尽くした。
      2. 大企業優先、富裕層優遇の経済政策によって、国民の大多数を占める労働者の労働環境、処遇を著しく悪化させ、破壊し尽くした。
      3. 集団的自衛権の容認により平和憲法の精神を事実上破壊し、日本を「戦争の出来る国」にしたと同時に、武器輸出三原則を事実上破壊し、日本を「戦争で儲かる国」にした。
      4. 原発行政に於いて「電源喪失の可能性」に対する(共産党議員の)提言を一蹴し、安全対策を怠った事が一因となり未曾有の事故を引き起こし、結果的に日本の国土が破壊された。
      5. 国会に於ける「数の横暴」により(十分な議論も為されないまま)強行採決を繰り返し、閣議決定を乱発する事で、事実上「民主主義」を破壊した。
      6. テレビ番組に対して名指しで抗議するなど、あの手この手でマスメディア全般に対して圧力を掛け続ける事で、政権に対する萎縮、忖度の気風を定着させ、事実上メディアの「権力監視機能」を破壊した。

      沖縄の基地問題など、まだまだ挙げればきりがないのですが、実は私たちにとって最も身近で関わりが深いのは、世の中で頻発する事件、事故の類で、それらは一見「安倍政権」とは無関係の様に見えるかも知れません。しかし、社会の安全、安心を担保することこそが政治の役割であるとすれば、そこに政権の良し悪しが反映されるのはむしろ当然の事なのです。

       

      例えば昨今の「業務上の(本来有り得ない)事故や不正」などは、過酷な労働環境や人々の無気力や焦燥感、苛立ちなどと無縁では有りません。それは通行人やドライバー同士の(常軌を逸した)トラブルや事件なども同様で、社会不安がもたらす過度のストレスでもなければ、人間は最低でも「やっていい事と悪い事」の区別ぐらいは付くものです。

      つまり「社会で生きづらさを覚える」というのも「反安倍」の立派な理由になるということです。

       

      ということで私たちは「親安倍」か「反安倍」のどちらかを選ぶことになります。

      | かまた | 時事関連 | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
      「嘘をつかない人」へ投票すべし
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        選挙となると各政党、候補者は「勝たなきゃ意味がない」ということで、それこそ「何でも有り」状態となっても不思議ではないが、公職選挙法という「縛り」があるので露骨な買収や選挙妨害をする訳にもいかない。

        そこで最も簡単に出来て効果てきめんなのが「嘘をつく」事だろう。何故なら「ついた嘘」は後日、「状況が変わった」「事態に柔軟に対応」などの大義名分の下、いくらでもひっくり返してウヤムヤにすることが出来るものだからだ。(少なくとも彼ら「常習者」はそう考える。)

        つまり、選挙に於ける「嘘」は、その人物が有権者に対する誠意や言葉の責任のカケラも持ち合わせていない事を物語っているということだ。

         

        その事を踏まえた上で、改めて(選挙の要とされる)「選挙公約」を見てみると良い。どの政党のそれも(色合いや趣きの差こそあれ)一様に「国民のため」とされている、その「主旨」に変わりはない。(強いて言うなら「直近の課題」に対する認識の違い程度の差だ。)

        であるとすれば、それこそ「どこでもいい」「政権の実績のある方が無難だ」などといった安易な有権者の態度もわからないではないが、事はそう簡単には終わらない。何故なら「選挙公約」そのものの中に、多分に「嘘」が混ぜ込まれており、実際には「国民のためにならない政策」を巧妙に覆い隠しているかも知れないからだ。

         

        となれば事はむしろ簡単で、選挙に於いて「嘘つき」を除外して行けば良いだけの事で、どの候補者が「嘘つき」か、或いはどの政党、党首が「(常習的)嘘つき」であるかは、過去の経緯を遡れば容易に判るはずだ。(そうすればほぼ絞り込めるはず。)

         

        という事で、今度の選挙の決め手は(政党の規模や実績に関係なく、消去法によって)「嘘つき(及びその政党)」を排除すること。

        | かまた | 時事関連 | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
        候補者の後ろの「敵意ムキ出し」の人々
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          現在衆院選の最中であるから、新聞やテレビ、ネットでは候補者たちの街頭演説の様子が頻繁に紹介されることになるが、以前から一つ、目について(気になって)しょうがない事がある。それは一部の候補者の取巻きに見られる「演説中の候補者の背後に立っている人たち」の顔だ。

           

          (ボディーガードのつもりか何か知らないが)如何にもコワモテの彼らの表情や目配り、物腰からは、目の前の聴衆に対する「明確な敵意」すら感じる。(事実、そうなのだろう。)しかも始末の悪いことには、そうした「敵意」は、(つい醸し出てしまったレベルのものではなく)むしろ積極的にアピールされている様子さえ感じ取れる。(つまり威嚇行動である。)

           

          これは集まった聴衆に対して「好印象」を与えたい候補者にとって、背後に「露骨な威嚇行動を行う者」を擁している事自体、明らかなマイナスであろうと思うのだが、もしそうであれば(印象操作に敏感ならざるを得ない)当の候補者自身から即座に「(如何に警備とは言え)もうちょっとその顔、何とかならんか?」という指摘があって然るべきだが、実際そうなっていないということは候補者自身が「それがプラス(=正解)」と考えている証拠だ。つまりその候補者は言わず語らず「聴衆を威嚇しておけ」と言っているも同然か、(こちらは候補者として有り得ない話だが)「どうしようもなく思慮の足りない人物」かのどちらかでしかない。

           

          仮に答えが前者であるとして、どうして候補者が聴衆の前で「睨みを利かせる」必要が有るのか?

          それは候補者自身少なからず、聴衆の中に「敵」が多いとの自覚があるからに他ならない。更に何故そう感じるのかと言えば、それはこれまでに「自分自身が(聴衆から)敵視されるような事をやってきた」からに他ならない。そしてその結果として、自身がにこやかに演説する一方で、背後に「お前らナメんなよ」と言わんばかりのコワモテを立たせておくという、まるで一人二役ならぬ「二人一役」とでもいった異様な絵面(えづら)となり、それ自体が「候補者の建前(笑顔)と本音(威嚇)」の様相を呈している。

           

          故に結論として、(如何に美辞麗句、甘事を並べ立てられようとも)テレビや街頭でこんな絵面を見かけたら、「その候補者に投票すべきではない」と思う次第だ。何故なら「安易に聴衆を敵視するような人物」に相違ないだからだ。

          | かまた | 時事関連 | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
          新聞、テレビの「情報操作」の見本
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            衆院選公示から僅か2日にして、早速新聞、テレビ各社が「当落予想」なるものをタレ流しているようですが、これぞマインドコントロール、大衆煽動の見本と言って良いでしょう。何故ならその「根拠」とされるものについて、受け止める側が(情報の信憑性を含め)真偽の確認のしようがないからです。

            ただ新聞はイザ知らず、テレビに於いてはそれを報じた後の、キャスターの一瞬の「表情のこわばり」によって、そうした情報が「理不尽で不適切なもの」である事を感じ取ることが出来ます。

             

            例えば「当落予想」で「自公圧勝」などと報じられれば、賛成派は勢い付き、逆に反対派は気持ちを削がれて「意気消沈」とまではいかないにしても、心理的にダメージを受けることは間違いなく、その結果「(行く、行かないを含めた)投票行動」そのものに影響を及ぼすことになるかも知れませんが、そうなるとこれはかなり悪質な「選挙妨害」ということになります。

             

            「悪質」というのは、メディアが大衆に対してあくまでも「公平、平等を装っている」点に集約されます。しかしメディア自体が「営利目的を持つ企業」である限り、各メディアにはそれなり「希望する選挙結果」が存在し、それが必ずしも大衆の期待する結果と結び付くものとは限りません。であれば、そうした自社の立場を明確に打ち出せば良いだけの話に思えますが、それでは逆に「マスメディア」としての地位が危うくなります。

             

            そのため結果的に「表向きは大衆(=視聴者)のための公平、平等」を装い、その実「自社にとって有利な方向へ視聴者を誘導」せざるを得なくなりますが、これはハッキリ言って「騙し」であり、事と次第では視聴者に対する明確な「背信行為」となるでしょう。

             

            このような不条理を解消するには、メディア自身が自社の企業体質や経営理念を抜本的に見直す以外になく、現状ではどうなるものでは有りませんが、少なくとも私たちには「新聞、テレビには大衆煽動の意図が有る」という認識を持ってニュースを見聞きする必要が有るということです。

             

            つまり「新聞、テレビの当落予想に食いつくな、信用するな」ということです。それは単なる「情報操作」に過ぎません。

            | かまた | 時事関連 | 09:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
            貧しいコトは恥ずかしい?
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              よく裕福な人々の言い回しとして「貧乏人は怠け者だから」というものが有ります。これは暗に「裕福な人々は(それなり能力が高く)効率的に無駄なく働いて、それなりの成果を得ているものだ(=働き者)」という認識の裏返しかも知れません。つまり「貧乏=怠け者(低能力)=恥ずかしい」という図式ということでしょうか。

              だとして、これは果たして本当と言えるのでしょうか。

               

              例えば、ある人が普通に一日の平均的労働時間をこなし、且つ毎月平均的労働日数を満たしているにも関わらず、結果的に「貧しさを禁じ得ない」といった場合、単純に「時給に換算した労働対価が安すぎる」か「収入に対する(ムダな)浪費が多すぎる」か、或いは「その双方が同時に起きている」ということが考えられますが、実際には3番めの「低賃金と浪費が同時に起きている」というケースが多いのではないかと思われます。何故なら、それは「企業の内部留保の増大」「過労死や残業代未払いの問題」、方や「メディアを通じた過剰な消費煽動傾向」など、企業を中心とした社会の動静から容易に想像出来るからです。

               

              しかも「貧乏」とされている労働者を評価し、賃金(という労働対価)を(買い手市場の論理で)一方的に決めているのは「裕福な人々」であり、ことさら近年はそれさえもAIに取って代わられる話までチラつかされるとなれば、それこそ言い値で働かされるしか選択肢がないのが現状であって、少なくとも前述のような「貧乏=怠け者(低能力)=恥ずかしい」という話とは全く無関係であることは明らかです。(騙されてはいけません。)

               

              となれば、不当に低賃金を強いられている人々がその場に何とか踏みとどまるためには「ムダな支出を極力避ける」しかなく、その結果(世間的に)「貧乏」と見做され、それによって(どうでもいい)何らかのランク付けが為される事があったとしても、それ自体「何ら恥じる必要はない」ということです。いや、むしろ状況に「論理的に対応している」として「大いに誇りを持つべき」だと思います。

               

              私は何も「貧しい方が良い」と言っている訳では有りません。しかし一方的に低賃金を強いられる中にあって、無理に物の豊かさを追求しようとすれば、返って(過重労働などの)自殺行為に陥ったり、或いは(犯罪的とは言わないまでも)人間的な資質や品格を犠牲にするような行為や考え方の中に身を置かざるを得なくなることが「如何にも残念」だと言っているだけです。(増して「カッコ悪い」「みっともない」がその理由というのであれば、なおさらです。)

               

              昔から「清貧」という言葉が有る如く、是非この時期を(貧しくとも)豊かな心を以って乗り切って頂きたいと思います。

              | かまた | 時事関連 | 12:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
              問題は社会システム云々の話ではない!
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                例えばここに人間が二人いて、双方共が「良い人」であったとすれば、その二人が力を合わせて生きていく上に於いて、事前に何か「決めごと」を行なう必要があるでしょうか。(そうは思えません。)これは仮にその場に十人いても同じであって、(瞬時に意思の疎通が可能な範囲であれば)そのパーフェクトな善意の集団(=社会)に於いては、何ら決めごとを設けること無く「公平、平等で幸福な社会」が実現出来るに違いありません。

                 

                その際、仮に「リーダー」を設けたり「役割分担」を行なうことがあったとしても、それはどうしてもそのような「社会システム」が不可欠のものだからではなく、単に「より合理的で効率の良いアイデア」を取り入れるという意味に過ぎないでしょう。言うなれば「システム」などと言うものは(社会にとって)二次的、三次的なものであって、そんなことよりも百倍も重要なのが「みんな良い人」であることは疑う余地もありません。

                 

                故に本気で「公平、平等で幸福な社会」を目指したいのであれば、いたずらに(政治的、経済的な)主義を並べ立て、社会システムをいじくり回す以前に、「(度重なる思想の紊乱、道義の廃頽の末)失われた人間性の回復」のために全エネルギーを注いだとしても決して間違いではないはずです。

                何故なら、現状のままでは「如何なる高尚な主義、主張も悪行のためのツールと化している」状況は変わらないからです。

                 

                例えば現状では「民主主義=多数決の乱用、悪用」と化し、「社会主義、共産主義=権力の独占、横暴」と化し、「国家主義、全体主義=国家の私物化」が行われ、「新自由主義、グローバリズム=弱肉強食による富の収奪」でしかなく、結果は何れも「権力者の優遇、庶民の冷遇」でしかありませんが、もし「社会のみんなが良い人」であったなら、仮に「独裁的なシステム」を用いた政治が行われたとしても、むしろ効率的に「公平、平等で幸福な社会」が実現するであろうことは疑う余地もありません。何故なら「独裁者自体もその取り巻きもみんな良い人」なのですから。

                 

                「そんなの今更無理だ、不可能だ!」と思う前に、良く考えてみて下さい。今からわずか百年ほど前までは、「金のためなら何でもする」などという人は、日本社会ではごく一部の「はみ出し者」でしかなかったのです。そのような日本古来の「恥の文化」が短期間に急速に失われてしまったとすれば、それは「それを望む何者かによって故意に、そして執拗にマインドコントロールを繰り返し行なってきた結果」としか考えられませんし、そもそも人間は(悪に手を染めるよりも)「良い人間」で在り続けることの方が「心地よく感じられる」もので、しかも「好循環」によって楽に生きられるものなのです。(嘘だと思うなら近所の「良い人」に訊いてみて下さい.)

                 

                何れにせよ、この世界には「社会に良い人が増えると困る(というとんでもない)人たち」が一部いるようですが、だとしても私の知ったことでは有りません。(そういう人たちは、やがて居場所を失うでしょう。)

                | かまた | 時事関連 | 12:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
                「見かけ」で人を判断すべし?
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                  私たちは日頃「見かけ(だけ)で人を判断してはならない」などと自分自身に言い聞かせることによって、相手方や他人に対する誤った見方に陥らないよう、或いは他者をより深く理解するため自らを戒めて来ましたが、これは「人間の内面と外面は必ずしも一致しない」という認識に基づいたものと言え、それはそれで間違いとは言えません。

                   

                  しかし本当のところ、人間というものは(当人の“隠したい”という意思に反して)程度の差こそあれ、概ね「内面と外面が一致」していると見て間違い有りません。但しそれは詐欺師などの例を取るなら、あくまでも(それと)「判る人には判るが、判らない人には判らない」といったレベルの話であって、「見る目、聞く耳」を持たない限りは判り難い、というのが実情かも知れません。

                   

                  本来人間は「完全な自己暗示(=別人格の形成)」に成功でもしない限り、如何に小細工を施そうとも内面の重要な要素は(雰囲気や色合いとして)外面に反映するものですし、他力による暗示(=マインドコントロール)の影響下にある場合であっても、これまた「自分のものではない、操られている」というカラーの反映は免れず、やはりそれと識られる事となります。

                   

                  因みにこれらの話は「読心術」や「テレパシー」など、所謂オカルティックな話には何ら関係なく、ただ「人間とは本来如何なるものか」を識り得る上での延長線上にあるものという認識が正しいと思われ、その意味では本来「誰でも出来ること」「誰でも解ること」と言えるのですが、但しそれには一定の条件が必要となります。

                  それは「人は何故(外見で)人を見誤るのか」ということに関係があります。

                   

                  「他人を見誤る」その正体は私たち自身が持つ「我欲」或いは「執着」に他なりません。

                  例えば(詐欺師に限らず)人には「声色(こわいろ)」というものがあり、声色は(単に先天的、生理的な要素だけではなく)その人が日々培ってきた様々なメンタリティが複雑にからみ合って構成される様々な要素によって(波形、周波数、抑揚、速度などが)決定、固定化されたもので、その人格固有のものと言って良いでしょう。であれば当然(猫なで声など)演出上の「自然、不自然」の差異なども含め、声色一つ取ってみても、それを「意識的に完全にコントロールする」など、並大抵のことでは有りません。

                  それが可能なのは唯一「役者が役になり切る時(=短期集中の完全な自己暗示)」ぐらいと言えますが、もしそれを四六時中行おうとしても、今度はそのために生じるストレスの影響を受けざるを得なくなり、結局は破綻して何れにせよ継続は不可能でしょう。(強いストレス下では、必ずボロが出ます。)

                   

                  話が長くなりましたが、とどのつまり私たちが(自身の我欲や執着という制約によって)他人を見誤らない(または騙されない)ためには、何より「豊かな人間性」を育むことに尽きると言えます。「豊かな人間性」は「みんなで良くなろう、みんなで良くしよう」という気持ちを持つことで確実に育まれます。

                  | かまた | 時事関連 | 09:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  「嘘つきは泥棒の始まり」どころか・・・
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                    人間が嘘をつく理由のほとんどが「自己保身」のためだとすれば、それは裏を返せば「相手がどうなろうと構わない」という意味になり、それを更に突き詰めれば「仮に(自分のついた嘘のために)相手が死んでも構わない」ということになります。

                    もちろん「つく嘘の程度にも依る」ということでもありましょうが、少なくとも「国政を担う政治家が国民に嘘をつく」という事は、そういうレベルの話と受け止めて良いでしょう。

                     

                    ですから「政治家の話の内容がコロコロ変わる」ということを余り軽く見るべきではありません。それ自体が「自己保身」の明確な表れであり、その意味は「自ら負うべきリスクを他人に転嫁する」となり、その人間が「(自分の嘘に依って)他人が受ける(死をも含む)理不尽な苦しみ」に対しても全く意に介さない「冷酷非情な心の持ち主」である事は明白です。(そう言われたくないのなら「嘘をつかなければ良い」だけのことです。)

                     

                    どんな「大嘘つき」でも、最初は「小さな嘘」からスタートしますが、一旦それに味をしめると(慣れも生じて)だんだん嘘がレベルアップすることになり、最終的には嘘に「罪悪感」を感じなくなって、それこそどんな嘘でも平然とつき通せるようになりますが、その時点ではもはや単なる「自己保身の権化」「究極の自己中心主義者」「冷酷非情の輩」でしかなく、故に(当然ながら)そのような人を政治家として選出し、政治を任せて良い訳もありません。(それこそ幼稚園レベルの常識です。)

                     

                    つまり「嘘つきであることが露呈した時点で、その政治家は終わり」ということです。

                     

                     

                    捕捉:人間性の観点から見ても「大義のために嘘をつく」などと言うことは有り得ない。その場合はただ「黙して語らない」だけか、或いは「主旨に沿った方便を用いる」だけのことで、嘘などつく必要は全く無い。

                    | かまた | 時事関連 | 10:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    一寸先は闇!
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                      人として最も恐ろしい事は、「物が正しく見えていない」ことに尽きるだろう。これはもちろん視力云々の話ではなく、その人の置かれた状況や状態に対する理解力、判断力の有無の話だ。そして(詳細は割愛するが)この「物が正しく見えるか否か」の個人差は「人間性の有無」が深く関わってくる。何故なら「人間性の本質は理性」であり、理性が十分に働かない限り「物を正しく見る」こと自体が不可能と言えるからだ。

                      つまり人間性が豊かであってこそ「確かな展望」が望め、人間性の乏しい人々に於いては文字通り「一寸先は闇」と言って良い。(人間性についてはサイト内検索で過去記事を参考にして下さい。)

                       

                      翻って政局の現状に目を向けるなら、(9月26日の記事でも書いた通り)「出方を間違えれば命取り」の状況下に於いて、すでに多くの「誤算」が起きているようだが、それも当然と言えば当然だ。何故なら、その場に参集した人々の多くに於いて(人間性に問題があってか)そもそも当初から「物が正しく見えていない(=物が歪んで見えている)」ためだ。

                      即ち「今まではこれで良かった」「歴史的にこうなっている」「慣例はこうだ」などの言い分の内、人間性と無縁のものは、今後は何の意味も持たなくなるだろう。むしろ「そんな感覚が今まで長年通用してきた事」こそに、驚きを覚えるべきだ。

                       

                      とどのつまり「自滅」とは、人間性の欠如がもたらす「当然の帰結」ということになろう。

                      | かまた | 時事関連 | 10:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
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