HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
「悪は悪を以って制する」とは?
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    本年2019年は「結果現象の年」という当方の見立てについて、もう少し説明を加えて見たいと思います。

    2018年に巻き起こった「対峙」の流れによってより鮮明となった人間社会に於ける「(価値観の)二分化」の後に来るものは、決して相容れない価値観によってもたらされる離脱、分離、独立などの「双方の関係性の実質的な希薄化」と言っても過言ではなく、これは単純に「いたたまれない所にはいない」という、謂わば「物理的な二分化(=住み分け)」という動きに発展するかも知れません。

     

    こうした際の押さえておくべきポイントが2つ有ります。

    1つには、現状の社会構造、組織、枠組みにあくまで居座り続けようとするのは、より既存の利権や物的な執着の強い側であるということ。

    今1つは、敢えて対峙することを避けた謂わば「沈黙する人々」に対する捉え方や処遇の問題ですが、こうしたケースに於いては(結果的に)成り行き任せ=長いものに巻かれる=(社会的)責任感の欠如とみなされても致し方なく、そうした意味で(無意識に)「二分化」の一翼を担っていることになります。

     

    また「対峙」が本格的な戦いの前哨戦の如きイメージも、明らかな誤りです。何故なら現社会に於ける対峙の構図の殆どには、何がしかの「倫理的、道義的是非」を問う意図が含まれており、それは究極的には物事の解決手段としての実力行使(=戦争)の是非をめぐる二分化とも言えるからです。ですから、もし対峙から武力衝突が起きたというのであれば、それは(暴力団同士の抗争と同様に)同じ価値観を持った者同士の単なる覇権、勢力争いに過ぎません。

     

    さて、仮に今まで善意と悪意が入り混じって混沌としていた社会が、まるで遠心分離器に掛けられた如くに善と悪、或いは正義と不正義に二分化(=住み分け)されてしまったとしたら、その後いったい何が起こるのでしょうか?

    やはり特筆すべきは(善意というターゲットを失った)悪意同士の凄惨な潰し合いでしょう。何故なら善意との関わりの断たれたそのような社会では、もはや倫理や道義という概念すら存在しないであろうからで、それ即ち「自滅」を意味します。

    つまり「結果現象」には「離脱と自滅」の2つのキーワードがついて回るとも言えるでしょう。

    | かまた | 時事関連 | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
    2019年は「結果現象の年」です。
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      これまでも当ブログでは年頭(或いは前年12月)に「今年(来年)はどういう年?」という主旨の記事を掲載してまいりました。例えば2016年は「変動、変化の年」2017年は「瓦解、崩壊の年」2018年は「対峙の年」といった具合です。

      その意味では今年2019年についても、昨年12月4日と29日の記事で「結果現象の年」とさせて頂いております。これは文字通り「原因に対する結果が形となって現れる」という意味でしか無く、良い原因であれば良い結果が、悪い原因であれば悪い結果がそれぞれ生ずる(=現れる、起きる、見舞われる)ということです。

      この場合、重要なポイントは「良い、悪いの基準があくまでも論理的な正誤によるもの」ということで、必ずしも「一生懸命やった、頑張った」からといって単純に努力の分だけ結果が付いてくるとは限りません。その意味では今年は正に私たち全員にとっての正念場とも言え、自らの価値観の正誤(=白黒)が明らかとなる年と言えるかも知れません。(但し、それを認めるか認めないかは当人次第でしょうが・・・。)

       

      「無理」という言葉を思い起こして下さい。これは「理に無いこと」という意味であって、理に無いこと(=論理的誤り)を以ってして最終的な結果を導き出すことは(ナンピトタリトモ)不可能であることを言い表しています。

      | かまた | 時事関連 | 12:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
      対峙したことの意味
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        当ブログでも繰り返し取り上げてきたように、今年(2018年)は「対峙の年」で有りましたし、国際社会はもとより日本社会に於いても様々な「対峙の構図」が浮き彫りにされたことは事実です。問題は「対峙することの持つ意味合い」ですが、その多くが「強者対強者」ではなく「強者対弱者」の関係性のもとに為されたものであることは極めて重要です。

         

        振り返れば「対峙とは(強者にとっても弱者にとっても)ラストチャンス」の意味合いであったことは相違なく、その結果としてもたらされたのが社会に於ける(人間の)「二分化」と言っても過言では有りません。これは分かりやすく言えば、今まで混じり合ってグレーの色合いを呈していたものが、対峙によって本性(価値観)を曝け出す事態に追い込まれ、その結果(図らずも)白か黒かを自ら選択せざるを得なくなるということです。

         

        その際、論理的には常に「どちらが白でどちらが黒かは明白」ですが、意外にも多くの人たちがせいぜい数十年でしかない自らの経験に基づく(浅薄で矮小な)固定観念にしがみつく様には、到底驚きを禁じ得ません。(そうなると過去の偉人、賢人たちの遺した格言や歴史的教訓も全く役に立ちません!)しかしそれが自然現象であろうと人為的なものであろうと、もたらされる結果は常に「真理→道理→論理」によって導き出されたものでしか有り得ないのですが・・・。

         

        その意味で、来年は「結果の年」であり、それが人によっては「驚天動地の出来事」と感じたり「有り得ない出来事」と感じたりするであろうということです。

        | かまた | 時事関連 | 11:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
        現政権と与党が数の力で成立させた法案は・・・
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          後日、束にして廃案にすれば良いでしょう。ある意味「ほとんど病的」ですので。(外務大臣「次の質問どうぞ」4連発???)

          | かまた | 時事関連 | 09:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
          安倍政権を総括すれば・・・
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            徹底的な民主主義、民主政治の破壊・・・としか言い様がない。何故なら一貫して徹底的に「民意と無関係な結果」をもたらし続けてきたからだ。そこで改めて「民意とは何か」を問うならば、一重に「誰しもが公平、平等と実感できる生活環境の提供と安全保障」に尽きることは民主主義を掲げる限り言うまでもない。しかるに格差社会を助長し、防衛力(=軍備)増強により戦争の脅威を増大させつつ、それ(=民意)と真逆の方向に突き進んできたのが安倍政権ということになる。

             

            ただ、安倍政権のおかげでたいへん良くわかった事も有る。それは「選挙制度による民意の反映と民主政治の実現は絵に描いた餅でしかなかった」という事だ。何故なら「金権政治」という言葉もある通り、大概のことは金と権力(=暴力?)で操作できるからだ。その意味で社会の内側は「制度」という形骸を残して、既に破壊し尽くされていると言って良いだろう。それ故、選挙のたびに殊更「民意をお示し頂いた」などと、逆にそこを強調したがる気持ちもわかるというものだ。然るに「ナチスに学べ」とはそういうことだ。

             

            つまり、安倍政権はナチスに学び、我々国民は「安倍政権に学んだ」ということ。但し反面教師としてだが・・・。そして「学び」とは「活かす」ためにあるということ!(来年はそれを活かす年。)

            | かまた | 時事関連 | 09:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
            来年(2019年)は・・・
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              2019はたまたま語呂合わせでブレイク(brake)と読めない事もないが、そうでなくとも今年は様々な方面、事象に於いて図らずも「対峙による二分化」が鮮明となり、物事の本質が浮き彫りにされたことから、もし来年がその延長線上にあるとするなら当然それらの「結果現象」を目の当たりにすることとなり、実際そういう年であろうかと思われる。

              この「結果現象」が何を指すのかということだが、先程のブレイク(brake)に話を戻すなら、単にbrake(機能停止)かも知れないし、brake down(破壊)或いはbrake out(突発)、更にはbrake upbrake freeで表される何かかも知れないが、何れにしてもbrakeである限りは「平穏無事」という訳には行きそうもない。

               

              肝心な事は、これらはみな原因に基づくところの「結果現象」であって、その要因は(大雑把に言えば)私たちが皆で撒いた種に依るものゆえ、一旦は甘受する必要が有り、そののち速やかに再考、再構築が為されるべきと思われる。その意味では来年は私たちにとって、より良い社会への手がかり、足がかりが得られる年になるかも知れない。

              | かまた | 時事関連 | 10:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
              最近何故かアクセス数が増えています。
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                何故か、このところ一日のアクセス数が100を超えることが多くなり、時折1000を超える様な日もあったりします。大半がおそらくカテゴリー「時事関連」の記事に対するアクセスと思われますが、当ブログの時事関連記事はほとんどが当方の別ブログ「青少年の何でも書き込み寺(大人も可)」にアップされたものの中から「一般向け」と思われる記事を抜粋し、転載しています。

                当ブログでは今まで「ブログの趣旨が異なる」として(押し付けがましさを避けるため)、敢えてそちらのブログへのリンクを用意していませんでしたが、記事への関心を持たれた方のために、この度サイドメニューのおすすめリンクに「青少年の何でも書き込み寺(大人も可)」を追加致しました。

                こちらは「みんなで良くしよう。みんなで良くなろう。」という極めてシンプルでわかりやすい主旨の下、多種多様なアプローチによる1000を超える記事をご用意させて頂いておりますので、併せて参考にして頂ければと思う次第です。

                | かまた | 時事関連 | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
                なぜスポーツがトップニュースなのか?
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                  私が子どもの頃は、テレビや新聞が日常的に扱うスポーツと言えば「野球と相撲」ぐらいのものだったから、30分のニュース番組で例えるならせいぜい「終盤の5分程度」がスポーツコーナーとしてそれに当てられれば十分という認識だった様に思う。当時のスポーツがニュースの中でそういう位置付けだった理由は、おそらく「娯楽であり国民の生き死にや社会の安心安全に直接関係が無い」ということだったと思われる。これは逆に言えば、ニュース(=報道番組)とは「国民の生き死にや社会の安心安全に関わる日々の出来事」を過不足なく伝えることが目的という事になる。

                   

                  翻って昨今は野球、サッカー、相撲に限らず、フィギュア、卓球、テニス、ゴルフ、陸上、水泳、バレー、ボクシング、柔道、スキージャンプ、カーリング・・等々(順不同)、多種多様なスポーツがニュース(やワイドショー)のトップを飾ることが珍しくも何ともなく、極めて日常的になっている。これは前述のニュースの目的から言えば、NHKを初めとするマスコミ各社が国民に対して「これは皆さんの死活問題よりも大事な今日一番の出来事です」と言っているに等しい。

                   

                  もしこれが私自身も長年関わってきた(スポーツと同じくエンタメであるところの)音楽がこのような「おかしな扱い」をされたら、当然の如く強い違和感を禁じ得ないに違いない。これは決してスポーツや音楽を卑下するということではなく、単純にマスコミを通じて国民に提供される情報は「死活問題を優先にして欲しい」との思いからだ。(もちろんNHKやマスコミ各社が頑なにスポーツをトップニュースとする意図は判明しているが・・・)

                   

                  少なくともこのように価値観の倒錯した世の中が、国民のためにならないことは事実だ。

                  | かまた | 時事関連 | 09:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  義務教育に於ける教育現場は既に崩壊している!
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                    何故なら、教育に携わる教師の資質としての「人格」を問われることがないからだ。そのため逆に言えば殆どの教師の「人格」は、教育者としての基準を満たしていないと言える。これが学問や知識を教えるのみということであれば(良いとは言えないまでも)まだ弊害はさほどでもないかも知れないが、小、中学校の教師は(多くの学校の教育目標などにも掲げられている様に)自ずと子どもたちの人格形成や生活指導にも関わってくる。つまり教師が「そこそこの人物」であって(子どもたちの目線で)少なからず尊敬の対象となり得なければ、子どもたちがその言動に関心を寄せ、行動を注視するというような事は起きて来ないのは当然だ。故に百歩譲っても「教師が職務に相応しい一定の人格を備えていること」は教育の基本中の基本と言える。

                     

                    翻って今の教育現場は歪んだ教育理念、即ち多分に押し付け的な国家主義的愛国心及び郷土愛、更には社会に於ける即戦力を想定した詰め込み式てんこ盛り教育(という上からの命令)の遂行に汲々としており、中学校の五割超、小学校の三割超の教師が「過労死レベル」という調査報告があるにも関わらず、皮肉にもその命がけの勤務実態が殆ど功を奏することもなく、本来の教育目的であるところの「子どもたちの健全な育成」に対する貢献度は総じて「極めて低い」と言わざるを得ない。(たまたま健全に育つ子がいるとすれば、それは秀逸な家庭教育の賜物に相違ない。)

                     

                    勘違いしている輩が多いと思うが、学校は既成の国家や社会の矮小な下請けなどではなく、むしろより良い国家や社会を築いていくための、伸び伸びとした自由で斬新な発想の持てる個々人を育む場であるべきで、そうでなければ社会はたちまち活力を失い、やがて硬直化、形骸化、風化の一途をたどるしかない。(何故そう言えるのかと問われるなら、現状がまさにそうだからとしか答え様がない。)

                    故に教師にあっては「公務員だからお上の言いなりになるしかない」という発想は明らかに間違いで、「それほど重要な役割を担っているからこそ、公務員として地位と生活を保証されている」という理解が正しい。

                     

                    もはや掃き溜めに埋もれている場合ではなく、心ある教育者の良心に基づく一念発起を期待してやまない。

                    | かまた | 時事関連 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    「発狂する」とはどういうことか?
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                      一言で表すなら「理性の働きがほぼ失われ、論理的に物事を理解し判断することが決定的に出来なくなった状態」で、残念ながら政治家、官僚、財界人、知識人、マスコミ関係者などの中にも顕著な例が数多く見受けられる。何れもその特徴としては「論理を逸脱した自らの言動に対して羞恥心や後ろめたさの欠片も持ち得ない」ことに尽き、結果的に図らずも「嘘やデタラメを平然と言ってのける」こととなる。

                       

                      ここでのポイントはそうした発狂状態での言動には、本人にとっての「ささやかな合理性は存在するかも知れないが、論理性が致命的に欠如している」ということで、そのこと自体が既に「自己破壊=自滅」を意味している。何故ならこの世は「真理→道理→論理」によって成り立っており、決して「合理性の産物」などではないからだ。(そのことが理解出来るか否かが「二分化」の原点とも言える。)

                       

                      ※ 論理性と合理性の違いについては、過去に「論理性と合理性の違いについて」という記事が有り、そちらを参照して下さい。

                      | かまた | 時事関連 | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
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