HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
そしてみんな発狂した
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    夜の時代が終わりを遂げ、昼の時代を迎えて既に77年が経ちますが、特にここ数年の間、増々強くなった光が世の中や人の心の隅々まで射し照らし、これまで闇に存在していたあらゆる穢れの類があぶり出され、苦しみ悶えながら一斉に表層に浮き出して世の中に大混乱をもたらしている事実が、世の中の様子から窺い知れます。

     

    例えば国会に於けるIRカジノ法案、参議院定数6増法案然り、これらをまるでモノに憑かれたが如くゴリ押しする感覚や神経そのものが、もはや正気の沙汰とは思えません。

    また、愛知県豊田市の小学校に於ける小1児童熱中症死亡事件然り、この件に限らず私の知る範囲でも公職に就く人々の多くが既に正気を失い、正常な物事の判断が出来ずにいるようです。

     

    今後もしばらくの間、今まで考えられないような事案が社会のあらゆる場で次々に人の手によって引き起こされるでしょう。しかしもし、それらが「二分化」という必要なステップの一過程であるとすれば、私たちは相応の心構えと覚悟を以ってあらゆる局面を受け入れざるを得ません。何故ならたとえどのような瞬間であれ、私たちが「生きるという意味」を見失う訳には行かないからです。

    それは「眼前の今にベストを尽くす」ことによってのみ達成されるものと確信しています。

    | かまた | 時事関連 | 13:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
    ランドセル(orスクールバッグ)は何故重い?
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      まず第一に、他人に明らかな苦痛や不快感を伴うことを強要すべきでないのは常識だ。教育現場では「子どもにとって重すぎるランドセル(orスクールバッグ)」が正にそうだということは、良識有る教育者であれば嫌が上にも感じているはずで、軍事教練でも有るまいに「鍛えろ」とか「慣れろ」などの声はもはや論外だ。それを言うなら先生方は率先して毎日20キロ超の荷物を背負って通勤せねばならない道理になる。

      何れにせよ、子どもに日々重い荷物を強要することと、山好きの登山者がたまに自ら大きなリュックを背負って出かけるのと一緒に考えるべきではない。

       

      この件について「東洋経済オンライン」で関連する記事を見つけた。こうしたことが専門家から問題提起され、ネット上で話題にされることは良いことだ。

      記事はこちら→ https://toyokeizai.net/articles/-/227156

       

      この記事の筆者は、子どもたちの荷物の重量が増した理由として、主に「教科書が厚く大きくなった」ことを掲げているが、それを「教科書を厚くして教える内容を増やせば学力が上がるだろう」「授業時間を増やせば学力が上がるだろう」という教育する側の勘違いが有る、と説明しているが、表向きは確かにそうかも知れないし、大きなカラーの図版を多用することで子どもたちの関心を引く効果を期待する向きがあるのかも知れない。

       

      だがそれを理由に教科書を大型にし、ページ数を増やし、カラー印刷に耐え得る良質の紙を使用するとなれば、当然教科書の製造コストは上がり、販売価格に反映されなければおかしい。(教科書会社は国営企業でもなければボランティア団体でもない。)まさか「販売単価を上げるため」にそれをやっているとは思いたくはないが、少なくとも記事の筆者の主張するように、子どもたちの学力の伸び悩みがあるとすればそれは「教科書の量や見栄えのせい」ではなく、単純に「教え方」の問題に尽きると思う。

       

      何人(なんぴと)も、学校を「子どもが行きたくない場所」にする権利など無く、むしろ「子どもが行きたい場所」にする義務が有ると考えるべきだ。

      そうすれば学力と言わず、子どもの「総合力」は間違いなく上がる。

      | かまた | 時事関連 | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
      「戦前回帰」或いは「男尊女卑」について
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        集約すればこれらは何れも嘗ての「縦社会」に対する再評価であり憧憬とも受け取れる。「昔はそれで上手くやれていた」とでも言いたいのだろう。だが残念ながら今の時代にそれを声高に叫んでいるのは100%「自己中心主義者」であり、人間的価値としては見るべきものの無い人々だ。つまりそういう人たちは「縦社会の方が自分たちの思いが遂げやすい」という理屈でモノを言っているだけのことで、縦社会の何たるかなど全く解っていないはずだから、こういう人たちの下での縦社会は凶器(狂気)にしかなり得ない。(事実、部分的には既にそうなっている。)故に絶対にそうさせてはならないのだ。(例えば「良い独裁もある」みたいな話とかにノセられてはいけない。)

         

        一方で真に縦社会を理解している人は、今の時代に決して「やっぱり縦社会が良い」などとは言わない。それは不心得な戦前回帰論者や安易な男尊女卑主義者に表面上の言葉尻を取られ、不本意に言説を利用されてはかなわないからだ。

        言っておくが縦社会の「縦」とは立場の上下や権利、権限の順列を表わしているのではなく、そこに明示されているのは「固定化された責任の所在と範囲」に過ぎない。だから逆に言えば「それさえはっきりしていれば後のことはどうでもいい」とさえ言えるのが「本当の縦社会」というものだ。後のことは「人間性」で適当にやれば良い。何故なら「責任とは人間性で果たすもの」だからだ。

        | かまた | 時事関連 | 11:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
        現政権のもたらしたもの
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          日本には現政権と同様の「汚いやり方」が浸透してしまったようで言葉もない。

          | かまた | 時事関連 | 11:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
          近況報告
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            ここ一ヶ月余りは現在各自治体によって実施されている「小・中学校に於ける学校選択制」の下での論理的不整合と決定的な矛盾点がなおざりにされ、それによって一部の子どもたちの登下校の安全が不当に脅かされている実態の早急な是正、改善を促すための「対峙と提案」に終始しておりました。

            それらの詳細はまた別の機会にするとしても、「おれはおかしい!」と思って実際に動いて見ると、実に色々なことが判ってきます。故にやはり「おかしいものはおかしい」として(面倒がらずに)事に対峙し行動することは非常に意味が有り、重要であると再認識致しました。

            (ヒント:学校側は強迫観念の下、時として保護者側の想像を絶する様な考えに固執することが有ります。)

             

            一方で国際情勢は日々大きく変動し、日本社会もそれにつれて様々な対応を余儀なくされています。

            現政権に関してはもはや論ずる段階はとうに過ぎ、膿を出し切ると言うよりむしろ「悪性腫瘍をどうするか」に近い話と考えるべきでしょう。(無論放っておけば早晩日本全体が機能不全に陥ります。)

             

            道徳教育などは物の役にも立たないばかりか、逆に日本中に「虚無」を蔓延させることに成り兼ねません。何故なら「競争原理」を基本とした社会システムの下では「矛盾や葛藤の元」にしか成り得ないからです。即ち人間性を破壊したのは「競争原理」であって、それは人の道(=道徳)と100%競合するもの故に、私たちが真っ先に為すべきは「道徳云々」ではなく、まず「競争原理の全否定」からです。

             

            道徳教育とは本来「競争原理」を社会から根絶させる目的を持つものであって、間違っても「競争原理」のお茶を濁すためのものでは有りません。

            | かまた | 時事関連 | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
            学校の「常識」は社会の「非常識」?
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              東洋経済ONLINEに秀逸な記事があったので紹介します。(このサイトは意外に趣きのある記事が多いです。)その記事のタイトルは〈不登校児をゼロにした元中学校長の「非常識」〉というセンセーショナルなもので、ぜひ一読されることをお薦めします。

              記事に拠れば「イエナプランの教育理念に基づいて丁寧に対応することで実現出来た」ということのようですが、問題はそうした論理的で当たり前の対応を「非常識」と言わざるを得ない現状の教育体制にあると思います。

              因みに「イエナプラン」とは下記の原則に基づく学校教育の一形態とされています。

               

              イエナプラン教育の20の原則 (K・ボットとK・フロイデンヒル 1992年)


              人間について


              1.
              どんな人も、世界にたった一人しかいない人です。つまり、どの子どももどの大人も一人一人がほかの人や物によっては取り換えることのできない、かけがいのない価値を持っています。

              2.
              どの人も自分らしく成長していく権利を持っています。自分らしく成長する、というのは、次のようなことを前提にしています。つまり、誰からも影響を受けずに独立していること、自分自身で自分の頭を使ってものごとについて判断する気持ちを持てること、創造的な態度、人と人との関係について正しいものを求めようとする姿勢です。自分らしく成長して行く権利は、人種や国籍、性別、(同性愛であるとか異性愛であるなどの)その人が持っている性的な傾向、生れついた社会的な背景、宗教や信条、または、何らかの障害を持っているかどうかなどによって絶対に左右されるものであってはなりません。

              3.
              どの人も自分らしく成長するためには、次のようなものと、その人だけにしかない特別の関係を持っています。つまり、ほかの人々との関係、自然や文化について実際に感じたり触れたりすることのできるものとの関係、また、感じたり触れたりすることはできないけれども現実であると認めるものとの関係です。

              4.
              どの人も、いつも、その人だけに独特のひとまとまりの人格を持った人間として受け入れられ、できる限りそれに応じて待遇され、話しかけられなければなりません。

              5.
              どの人も文化の担い手として、また、文化の改革者として受け入れられ、できる限りそれに応じて待遇され、話しかけられなければなりません。


              社会について


              6.
              わたしたちはみな、それぞれの人がもっている、かけがえのない価値を尊重しあう社会を作っていかなくてはなりません。

              7.
              わたしたちはみな、それぞれの人の固有の性質(アイデンティティ)を伸ばすための場や、そのための刺激が与えられるような社会をつくっていかなくてはなりません。

              8.
              わたしたちはみな、公正と平和と建設性を高めるという立場から、人と人との間の違いやそれぞれの人が成長したり変化していくことを、受け入れる社会をつくっていかなくてはなりません。

              9.
              わたしたちはみな、地球と世界とを大事にし、また、注意深く守っていく社会を作っていかなくてはなりません。

              10.
              わたしたちはみな、自然の恵みや文化の恵みとを、未来に生きる人たちのために、責任を持って使うような社会を作っていかなくてはなりません。


              学校について


              11.
              学びの場(学校)とは、そこにかかわっている人たちすべてにとって、独立した、しかも共同して作る組織です。学びの場(学校)は、社会からの影響も受けますが、それと同時に、社会に対しても影響を与えるものです。

              12.
              学びの場(学校)で働く大人たちは、1から10までの原則を子どもたちの学びの出発点として仕事をします。

              13.
              学びの場〈学校)で教えられる教育の内容は、子どもたちが実際に生きている暮らしの世界と、(知識や感情を通じて得られる)経験の世界とから、そしてまた、<人々>と<社会>の発展にとって大切な手段であると考えられる、私たちの社会が持っている大切な文化の恵みの中から引き出されます。

              14.
              学びの場(学校)では、教育活動は、教育学的によく考えられた道具を用いて、教育学的によく考えられた環境を用意したうえで行います。

              15.
              学びの場(学校)では、教育活動は、対話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本的な活動が、交互にリズミカルにあらわれるという形で行います。

              16.
              学びの場(学校)では、子どもたちがお互いに学びあったり助け合ったりすることができるように、年齢や発達の程度の違いのある子どもたちを慎重に検討して組み合わせたグループを作ります。

              17.
              学びの場(学校)では、子どもが一人でやれる遊びや学習と、グループリーダー(担任教員)が指示したり指導したりする学習とがお互いに補いあうように交互に行われます。グループリーダー(担任教員)が指示したり指導したりする学習は、特に、レベルの向上を目的としています。一人でやる学習でも、グループリーダー(担任教員)から指示や指導を受けて行う学習でも、何よりも、子ども自身の学びへの意欲が重要な役割を果たします。

              18.
              学びの場(学校)では、学習の基本である、経験すること、発見すること、探究することなどとともに、ワールドオリエンテーションという活動が中心的な位置を占めます。

              19.
              学びの場(学校)では、子どもの行動や成績について評価をする時には、できるだけ、それぞれの子どもの成長の過程がどうであるかという観点から、また、それぞれの子ども自身と話し合いをするという形で行われます。

              20.
              学びの場(学校)では、何かを変えたりよりよいものにしたりする、というのは、常日頃からいつでも続けて行わなければならないことです。そのためには、実際にやってみるということと、それについてよく考えてみることとを、いつも交互に繰り返すという態度を持っていなくてはなりません。

               

              つまり、このような教育理念に基づき、それを実践すれば「非常識」とされるのが今の教育現場であり教育体制ということになりますが、逆にイジメや不登校、自殺などに真摯に向き合うとすれば(経済最優先社会を一旦棚上げする気にさえなれれば)こうした子どもの視野に立った教育の形が不幸を未然に防ぎ、多くの問題を解決に導くであろうことは想像に難く有りません。

               

              何れにしても当ブログでも再三申し上げている通り、社会の価値観は間もなく180度変わります。というか変わらざるを得ない局面にとっくに差し掛かっています。現場の人たちの勇断がまさしくそれを具現化するものであることは、前述の記事にある通りです。

              | かまた | 時事関連 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
              「政治の話をするな」???
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                日刊ゲンダイDIGITAL〈若者の間でも…「政治の話をするな」日本を覆う陰鬱な空気〉という記事を見つけた。要は「政治の話は重いからイヤだ」ということらしい。ではそういう人は何の話ならOKと言うのだろう?

                 

                人には誰彼問わず人生があり将来があるはずだが、一体誰が自分が生きて行く上で敢えて「劣悪な環境」を望むというのか。それどころか大方の人は今より少しでも「生きやすく快適な環境」を望んでいるはずと思う。その意味で「政治(環境)の話」というのは自分にとってより身近な生活環境の話、即ち家庭環境、知人友人環境、学校職場環境、地域環境などの明らかに延長線上にあるに過ぎず、人間が生存権を主張し生きやすさを求める時に「政治の話は別」的な論理は存在しない。(具体的な関わり方には一定のルールがあるにせよ、少なくとも評価や問題意識を持つことは自由なはずだ。)

                 

                逆に「政治の話は重い」と言う人に訊きたいのだが、では「家庭内や知人友人同士、或いは学校や職場や近隣住民」とはお互いの生活環境を整えるための話し合いが良く出来ているとでもいうのだろうか?たぶん無理だと思う。そういう人はおそらく「現状で自分が入り込めそうな隙間を見つけてそこに身を置くことで細やかな満足を得ようとする人」かも知れない。(そこで「しめしめ」と思うのも確かに一つの生き方かも知れない。)

                だが私が危惧するのは「もし入り込める隙間が無くなり、居場所が無くなってしまったらどうするのだ」ということで、それが既に現実化していることは様々な陰惨な事件や社会に蔓延する閉塞状況が証明している。

                 

                どう生きようと自由かも知れないが、成り行き任せの無責任な生き方には相応の結果しかついて来ないものだ。そういうのを「自滅」という。

                | かまた | 時事関連 | 11:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
                「対峙」には時間と手間(=労力)とお金が掛かる
                0

                  例えば社会の不条理に対して、私が延べ100時間と10万キロカロリーと10万円を投じたとする。だからと言って、それによって物事が劇的に変わるということではないかも知れないが、もし私以外の1000人の人々がそれを同時に行なったとすれば、総エネルギー量は一気に10万時間、1億キロカロリー、1億円分となり、それだけでも世の中を動かすのに十分なエネルギー量と言えるだろう。

                   

                  故に、今本当に必要なのは徒党を組んで何かをしようと画策することではなく、私たち一人ひとりが持てるエネルギーを使って、それぞれの立ち位置に於いて「本気で対峙」することだと思う。逆に言えばそうしたピュアな生き方以外に人の賛同を獲得し、人を動かす方法などない。どうしてそう言い切れるのか?簡単な話だ。みんながこぞってそれと真逆のことをやってきた結果が、何もかもがメチャクチャとなってしまった今の世の中だからだ。(土台そう思えない人には関係のない話でしょうが。)

                  | かまた | 時事関連 | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  「対峙」とは何か?
                  0

                    「対峙する」とはどういうことかを端的に表わすなら「この世には(自身の)命より大事なものがあることをそこはかとなく理解する」ことに他ならない。何故ならそう思えない限り(正確な意味に於いて)対峙することなど出来ようはずもないからだ。

                     

                    例えば自然界に生息するあらゆる生き物には、あらかじめ「対峙」という行動パターンとその発動条件が本能の一部として組み込まれており、そのほとんどが「種の保存」に関わるものと言える。(これは逆説的に言えば「個々の個体の存命」は、さほど重要視されていないという風にも思える。)そして結果的に自然界の生物たちの「対峙」が確実に発動し実行されているおかげで「自然界全体が保たれている」ことになる。

                     

                    翻って人間の場合、思考や行動が本能で規定されている訳ではない(と考えるのが普通だ)。なので他の生物と同様「(自身の)種の保存を目的として対峙する」と考えるのは些か無理が有るし、もしそうならそれに依って社会の安定と継続が保証されなければならないはずだが、実際にはそれと逆のことが起きるだろう。

                    このように人間の場合「対峙」の在り方一つとって見ても、自然界の他の生き物たちとは本質的な違いが有ることぐらいは最低でも理解する必要がある。

                     

                    何れにせよ人間は「無」から始まって「有限」を経過し「無限」に至るイメージを持ち得る唯一の存在であることが、他の生物との決定的な違いであり、それこそが本能に代わる人間的な能力と言っても過言ではないとすれば、人間的な「対峙」も必然的にそのイメージ上に存在するに違いない。

                     

                    気が付けば今年になって多くの著名人(最近は是枝監督)が実際に「対峙」という言葉を用いて自らの社会的スタンスを明確化している。そのような(命を賭した)一人ひとりのエネルギーが合力となり、世の中を方向付ける大きな力となっていることは間違いない。

                    | かまた | 時事関連 | 16:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    「理想と現実」について
                    0

                      世の中では「理想主義」とか「現実主義」などという対比が用いられる事が多いが、これらはイメージ的には「理想=遠くの(論理的)目標、現実=間近の(合理的?)対応」と言い換えて良いだろう。しかし本来「理想と現実」という対比の仕方は決して「遠い、近いと言った時間的猶予の有無や距離感の問題」などではなく、むしろ「論理に忠実か否か」或いは「非論理性をどこまで容認出来るか否か」という話でしかない。何故なら、現場の対応が「本来の論理的主旨に即したもの」であることは一つも間違いではないし、逆に「時間が無いから論理的対応は不可能」という理屈が成り立つはずもないからだ。

                       

                      しかし現状では私たちの社会(の様々な事象)に於いて、少なからず理想と現実はかけ離れているものと認識される事が多く、あたかも「理想は理想、現実は現実として当面分けて考える」のが正しいとされ、ともすれば「理想主義に傾く(=理想を貫く)」事に対しては「非現実的で不合理?な対応であって物事の解決の手段として適当でない」との評価さえも存在しているのが実情ではないかと思う。

                      そこで問題は、私たちがいったい何故「あるべき理想(=論理的解決)」に対して、それが「非現実的選択」と思えるまでに「距離感」を覚えなければならないのかということで、何故に「理想即現実」と成り得ないのかということだ。

                       

                      その答えは至って簡単で、それは私たち個々の人間がそれぞれに「我と欲と執着」を持っており、社会の多くの部分が(建前上はイザ知らず)内実はそれらを反映したものであり、私たちの社会がそれらを前提として成り立っている限り、諸問題に対する現実的対応が実質「我欲や執着心のせめぎ合いに対する調整」に終始する以外にないのは当然で、その状態で論理(=理想)の介在する余地などあろうはずもないということだ。

                      これはもし社会が(我と欲と執着ではなく)理知(=論理)的に構成されていれば、ほとんどの問題は5秒で解決するであろう事を意味し、それこそが(社会に於いて)「理想が理想とされる由縁」である。

                       

                      因みに「我、欲、執着」とは、己さえ良くなればよいという「自己中心思想」の根源を成すものであり、同時にその目的や思いとは裏腹に(多くの場合、結果的に他者をも巻き添えとする)「自滅の論理」を体現するものである。つまり当ブログで繰り返し書いてきたように「自己中心思想=自滅思想」ということだ。

                       

                      日本に於いては現在、競争社会に於ける勝利至上主義があからさまに喧伝され蔓延する中で、戦後最大の疑獄事件と言われる安倍総理周辺の「森友、加計問題」や、直近の「日大アメフト部による暴行事件」などの本質は、すべて「勝つためなら何をしても許される」が如き反社会性に裏付けられた「自滅思想」にあると断言出来る。それら当事者たちの共通の特徴は、ひとえに「見苦しい」の一言に尽きる。

                       

                      今年は「対峙の年」であるが、何を以って対峙するのかと言えば当然「論理=理想=あるべき姿」でしかない。(そういう自分も現在必要あって身近な事案にて「対峙中」。)

                      | かまた | 時事関連 | 14:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
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