HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
自民党の二階幹事長発狂で前後不覚か?
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    としか思えない、無思慮、無自覚の到底信じ難い発言で、自民党と所属の大半の政治家が(既に国民から100%乖離して)「終わっている」という事実を、嫌が上にも国民の間に広く知らしめる結果を招いた。以下は関連記事の抜粋。

    自民党の二階俊博幹事長は26日、東京都内での講演で、東日本大震災をめぐる失言で辞任した今村雅弘・前復興相を念頭に「人の頭をたたいて、血を出したっていう話じゃない。言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切っていかなくてもいいんじゃないか」と語った。自らの派閥に所属する今村氏の発言を、擁護したとも受け取られかねない発言だ。(朝日新聞デジタル 4/26(水) 13:39配信

    これから見ても、自民党は現時点で既に国民に対して完全に背中を向けており、単純に自分たちの目的のために策を巡らせながら突き進む「政治秘密結社」と化している。ただ秘密が秘密で無くなって来ているところが「焦りと慢心と驚くほどのレベルの低さ」を物語っているに過ぎない。つまりは見たまんま、見えたまんまが「現在の自民党」で、何かの深謀遠慮か?などと深読みする必要すらもない。

     

    また(どこかの記事に書いてあったが)財界やマスコミが現自民党政権を不自然なほど擁護に徹する理由はただ「(自分たちが)儲かるから」だそうで、そのためには「稚拙な政治」によって国民が軒並み不幸に突き落とされ、国が荒廃しても良いというのだから、呆れてものも言えない。まさに「金の亡者」だ。

    心ある財界関係者並びマスコミの諸氏は、直ちに持てる力の全てを投じてこの忌まわしい流れに反旗を翻すべきだろう。(それが「自分自身」のためだ。)

     

    とにかく政権与党の中枢に多数の発狂者、と言って悪ければ「キツい妄想に取り憑かれた人々」を抱える状況である上に、その周囲に群がる「金の亡者」たちによる寄ってたかってのマインドコントロールのために、現実感を喪失させられた挙句「何があっても何をされても無批判、無反応、無関心」とされてしまった国民という組み合わせは、もはや「北朝鮮を遥かに凌ぐ危険極まりない状況」と断じる事が出来る。

     

    今は間違いなく「内政」に目を向ける時であり、「北朝鮮が〜、韓国が〜、中国が〜」などと言って良い時期はとっくに終わっているのだ。

    | かまた | 時事関連 | 10:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
    今村復興相が辞任したは良いが
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      議員は辞めない。大臣どころか国会議員としての資質(=権利、資格)すら持ち合わせていないことが、その言動からも明らかなのに。(いいね、好きだね、こういう解りやすい人。)まるで金魚の水槽にこびり付いた「青ゴケ」みたいだが、現政権に於いてはこのところ特段珍しい事とは言えなくなっており「今村さん、やっぱりアンタもか!」と言った具合に恥ずかしげも無く議員の座に居座る事は、もはやワンパターン化している。

       

      その元凶は「安倍総理」その人に他ならない。今回もワンパターン化した例の「任命責任はまさに総理大臣である私にございますので、こうした結果となりましたことに対しまして、おわびを申し上げたいと思います」との事だが、そうした言葉自体が常に「お詫びしたいという希望」を述べているだけで、実に軽い。だから単にその場を取り繕う以外の何の意味も持たず、事実、似たようなことが何度でも起きる。そういうことから見ても、実質的な何のお詫びも為されず、「任命責任」などと言葉はしても、その責任が果たされた試しすら無いと言える。

       

      それに最近の自民党自らの「気の緩み」という言葉の真意は、「驕り高ぶる余り、腹の底では自民党が国民をバカにし切っている事を包み隠しておられないほどに気が緩んでいる。」という意味であって、間違っても「(気の緩みで)油断が生じて誠心誠意国民に尽くし切れていない」という殊勝な心掛けであるはずもない。

       

      そんなの誰だって見ればわかる。

      | かまた | 時事関連 | 15:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
      今日も朝から「朝鮮半島有事」ですか?
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        相変わらず米国も日本政府もテレビ報道も、あたかも今起こっている(とされている)事が「自然の成り行きとして不可避」であるかの論調ですが、まったく何をかいわんやです。

        国連決議云々にしても、国連自体が常任理事国の実態を鑑みるまでもなく、第二次大戦の戦勝国を主体とした「差別意識」が未だに反映されている組織でしかないことは事実で、百歩譲ってその事を抜きにしても、そもそもアメリカが武力行使に踏み切るための「レッドライン」なるものを一方的に想定したのも「アメリカの独断」に相違無く、その強硬姿勢を「全面的に支持する」などと、ろくな展望も持てずに追従したのは他ならぬ安倍晋三率いる「日本政府」です。

        このことからも安倍晋三の頭の中には「原発事故」と同じように、「戦争を真剣に回避しようとの殊勝な心積もりは皆無」であることが判ります。また悪いことに大半の日本人は、政府と財界、マスコミが一丸となった「悪辣なマインドコントロール」によって作り出されたバーチャルな世界観の中で生かされており、まったく現実感を感じることが出来ずにテレビのインタビューで「ハア、なんか・・コワいですよネ〜」「こんなんで戦争になっちゃうの?って感じですよネ〜」などと、まるで夢でも見ているような顔して答えています。

         

        自分の国の政府が「北朝鮮に対する(米国による)先制攻撃を肯定している」事に対して、国民としてそれを「容認」していながら今更「エーッ?まさか〜」は無いでしょう!国として「他国に対する武力行使」を肯定してしまえば、その時点で「自分たちがミサイルのターゲット」にされるのは、これ以上無いほど当たり前のことではないですか。(他国に攻撃の意思を持つ諸外国はみなそうでしょう。)

        それが嫌なら「立憲主義」に基づき、憲法改正(=改悪)を公言して止まない現政権を「みんなして政権の座から引きずり下ろす」しかないでしょう。(夢見心地でボヤ〜っとして漫然と生きていられる時代はとっくに終わっているのです。現実に立ち返りましょう!)

        | かまた | 時事関連 | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
        最近続き過ぎる「閣僚クラスの政治家」の不祥事
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          これら一連の問題は(総理大臣を筆頭に)どれも(人としての)レベルが低すぎて、そもそもそんな話を耳に入れたくもないし、それについて話したくもないというのが正直なところです。

           

          思えばどこの小学校の教育目標にも「考える力を養う」という類のものが掲げられており、それは当然「自分で考えられた分だけ自分で行える」という意味を含んでいる訳です。そうなると最近の(不祥事絡みの)政治家諸氏は、この「考える力」も無いとしか言いようが有りません。何故なら、見ている限りでは「不祥事の後の身の振り方」がまったく道理に適わず「なってない」からです。どの人も少なくとも「自分で考えて自分で行動する能力が有る」とはとても思えない対応で、それは強いて言えば「何が起こったか判らずその場に茫然と立ち尽くしている」姿に限りなく近いものです。それが証拠にほとんどの人たちが「辞任しない、辞職しない」からです。但し(曲がりなりにも)発言等に対する「謝罪、訂正、撤回」が行われているのは「自分で考える力」によるものではなく、さすがに「誰かに背中を押された」からです。つまり本来は(背中を押されなければ)揃いも揃ってそれすらも出来ない人たちということになります。(それってヒド過ぎませんか?)

           

          とにかく「考える力」が無いことが判明した限りに於いては、この際「謝罪、訂正、撤回」に留まらず、「辞任、離党、辞職」の必要な一連の行動に関しても、逐一「誰かが」というより「みんなで背中を押してあげるべき」だと思います。そうでないと、この人たちは(その場で茫然としたまま)いつまで経っても自分で態度を決することが出来ないようです。それではいつまでも晒しものとなって気の毒ですし、みんなも大いに迷惑しています。つまりそうすることがお互いのためだということです。

           

          因みにそういう不祥事絡みの「考える力の無い人」の多くで東京大学、財務省など学歴、経歴共に一流の人たちを見かけますが、「勉強の仕方を誤ると肝心の小学校レベルの考える力さえまったく育まれない」という好例とされ「要警戒」と言えるでしょう。

          | かまた | 時事関連 | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
          電車に乗ると分かること
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            電車に乗るといったい何が分かるのでしょうか?ハイ、人々の精神的実態、ひいては社会の精神的実態が良く分かります。別にそういうことを見たくて知りたくて乗っている訳では有りませんが、結果的に「嫌でも見せつけられる」ことになってしまうのです。それは何故でしょうか?

             

            それは多くの人々は一歩家の外へ出ると、その間「真っ当な社会人」を演じ続けなければならない現実があるからに他なりません。謂わばその姿は「素(す)の自分ではなく、演技そのもの」と言って良いものです。

            つまり殆どの人たちのメンタルは「真っ当な社会人」と言える代物ではなく、ただ様々な理由から「それを演じる必要性」だけは認識している、ということになります。

             

            どうしてこんな事になってしまったのでしょう?それはそのような「裏表を使い分けるメンタリティ」を容認、或いは推奨する教育を施されて来た結果だと私は思っています。これは戦後日本の「自由主義経済を社会基盤とした弱肉強食的競争原理」に基づく教育の下では、むしろ当然の事と思われます。

             

            そうした社会環境にあって、例えば競争相手(=ライバル)に対して「自分を磨いてくれる良き友」と思うか、それとも「自分の存立を脅かす敵」と思うかは、まったく各人に一任されており、教育的に整合性を以ってコントロールする事は困難です。何故なら人々にとっては、そんなことよりも「競争による勝敗の結果」の方が遥かに深刻に違いないからです。(この状況下での表面的な道徳教育など、人々に余計に混乱をもたらすに違い有りません。)

             

            電車の話に戻しますが、そこは人々にとっては(基本的に)お互いが「何の社会的しがらみも感じなくて済む精神的に開放された空間」と感じられる場であるようです。その意味で多くの人たちは(おそらくは無意識でしょうが、無防備にも)「素顔をさらけ出している」ことが多いのです。そうした顔は少なくとも「職場や所属するグループ内」では有り得ない、どちらかと言えば「家の中での顔」に近いものと思われます。

             

            近年は乗り込むとすぐにスマホや読書に耽る姿を多く見かけますが、問題はその表情や風情がどの人も(良く見ると)「辛そうであったり、苦しげであったり、暗く陰鬱であったり、或いは必死に何かに没頭しようとしていたり」と、人によってニュアンスの違いは多少有っても共通して周囲に対する「無視、無関心、無頓着」という或る種の「排他性」が見て取れます。(その様子からは本来の社会性など微塵も期待出来ません。)

            しかし現実はこのように「裏表のある人々」によって、(かろうじて)社会が支えられているということです。

             

            このような社会を(心の奥底では)誰も望んでいないに違い有りません。それは「演じ続けなければならない」こと自体が道理に合わず苦しいことだからです。にも関わらず何故私たちは演じ続けなければならないのか。それは「社会システム(=経済システム)」自体が私たちに(有ろうことか)「反社会性(=自己中心主義)」を要求するという本質的な「矛盾」が原因です。

            私たちはこの「矛盾」を即刻正さなければなりません。

            | かまた | 時事関連 | 11:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
            「破綻」の時代は「居直り」の時代
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              今年は「瓦解、崩壊」がキーワードですから、その結果として様々な物事が「破綻」します。その中には当然、人々の暮らし向きや立場なども含まれる事となるでしょう。

              普通は「破綻」すれば色々な意味で「追われる身となり、身の置きどころに窮する」はずですが、最近の傾向としては、それよりもむしろ「居直り、開き直り」に転じる人々が増えているようです。この傾向は以前から知られているところの「逆ギレ」という現象に通じるものが有るように思います。その特徴はどちらも「論理的思考を放棄している」ということです。

               

              人間は追い込まれると、その最大の関心事は「自己擁護」となるようです。一方で平素、社会の一員として社会生活を営む上では「他者とのバランス」が必須とされ、そのため(曲りなりにもそれなりの)「論理的思考」が求められる事になります。しかしどうもその時点から(本音では)それを「不本意」或いは「苦手」として、バランスを取るための「論理的思考」自体をストレスと感じている人々が多くなり、その結果すぐに「逆ギレ」するということだと思います。

              つまり「逆ギレ」も「居直り、開き直り」も、それから(今朝も報じられていた)「轢き逃げ」なども全て、その人間の平素からの「本音」そのもので、言い換えれば「元々そういう人間」ということです。

               

              取り分け、今の日本を象徴しているのは、再三にわたって「総理大臣が国会答弁で逆ギレ」と報じられ、国民がそれをこれまた「看過」していることです。これはつまり日本政府そのものが(理詰めで追い詰められると)「逆ギレ」し、「居直り、開き直り」を先陣切って体現しているということであり、更に驚く事には、国民もそれを目の当たりにして「余り違和感を感じていない」と思われる節が有ります。

              これには国民がそれを「見慣れた」とか「慣らされた」というより、むしろ「わかる、気持ちわかるよ」みたいな低レベルの「同類意識」が働いているのではとの懸念さえ覚えます。

               

              しかし良く考えて下さい。「破綻して居直る」ということは、自己擁護に徹する余り「社会的責任を一切負わない」と宣言しているのと同じです。政府が率先してそれを行ない、国民の皆もそれに準ずるとなれば、それは直ちに「社会全体の崩壊」を意味することとなります。(その兆しは既に随所に出始めています!)

              誰も責任を負わない世界・・・それは醜悪極まりない世界です。そうなって真っ先に途方に暮れるのは自分自身、つまり私たち自身に他なりません。(たぶん生き延びることさえ困難でしょう。)

              | かまた | 時事関連 | 09:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
              私たちはいつも「何かに加担」している。
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                これも当たり前のことで、私たちの日々の生き方や考え方、立ち居振る舞いの一つひとつが、(たとえ自意識が希薄であっても)客観的に見ればれっきとした「自己表現」でしか有りません。ただそこには、人によって表現の「強弱」があるに過ぎません。

                 

                例えば、当ブログでも何回か取り上げていますが、現政権発足以来(不当な圧力や利権絡みによる)「公共放送NHK」の偏向振りは目に余るものが有り、今や国民生活を危機に陥れ兼ねないレベルに達していると言っても過言では有りませんが、その時点で「NHKを見ない、信じない」という人がいるかと思えば、未だに「(公共放送だから)NHKの言ってることが本当だ」とばかりに「NHKを信じて疑わない」というNHKファンもいるでしょう。

                 

                しかし、こと「森友学園問題」の扱いなどに露骨に表れている様に(姑息な情報操作を積み重ねる事で)現在のNHKが極端な「政権擁護」の偏向振りを示していることは、実際誰の目にも明らかとなっています。(これはNHK単体では無く、可能な限りのテレビ局や他のメディアも同時に見比べてみる事で、より鮮明化します。)

                にも関わらず、依然としてNHKを支持し続け、そこで提供される情報を鵜呑みにし続けるという時点で、その人は「(NHKを媒介として)現政権を支持する態度を社会的に表明している」ことになります。それは言い換えれば「現政権の補完勢力の一員」にされているということです。

                 

                これはほんの一例を挙げたまでで、ただ「テレビ(番組)を見るか見ないか」という、極めて日常的でプライベートな事柄であっても、私たちはそこで「社会に向けた自己表現」を無意識無感覚に行なっているという事ですから、一日を通して見ればそこでは数限りない潜在的な意思表示(=支持=加担)が行われているということになります。

                つまり私たち国民は「直接的な行動」をしていないから「加担していない」というのは体の良い「錯覚」に過ぎず、場合によっては「何もしない、何も言わない」ことを以ってさえ、それが「何らかの(消極的な)加担」であることは間違い有りません。

                 

                私が敢えて申し上げたいのは「後で泣き言をいうのは、やめて欲しい」ということです。おそらくそれらは「自分は知らなかったし、まったく関わってもいない。完全な被害者だ」というようなことだと思いますが、子どもであれば確かにそうでしょうが、大人の場合それは「無し」です。何故なら「知る機会は幾らも有ったし、判断の材料も猶予も十分有った」からで、唯一後悔する原因が有るとすれば「損得勘定を誤った」ことぐらいでしょうか。

                 

                話は変わりますが、私は自分の父母が「先の戦争」について多くを語ろうとしなかった理由は、最低限「加担したこと」を認めるだけの知性と良心を有していたためだと今でも思っています。(それ故、私は絶対に加担するまいと心に誓っています。)

                何れにしても、国内状況も世界情勢も、もはや予断を許さない緊迫感と危機的状況に満ちています。そうした中で今、正しいと信じる方向に「加担」しておかないと、その人は後でしっかり後悔する事になると思います。

                | かまた | 時事関連 | 10:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
                自民党は終わった。国会で究極の暴挙!
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                  国会の場において何を以って「究極の暴挙」とするか。それは「議会制民主主義」の根幹を踏みにじる事に他ならない。例えばあの手この手のからめ手を使い、のらりくらりと言い逃れに終始し、詭弁を弄してけむにまくと言うのなら(たちは悪いが)まだいい方だが、今回は違う。衆院厚生労働委員会の場で自民党の丹羽英樹委員長自らが、森友学園問題に関する野党議員からの質問を「議題に関係の無い質疑」として一蹴し、答弁を求められた安倍総理の逆ギレに露骨に加担したばかりか、何を思ったかその日の予定には無かった法案の強行採決という暴挙にまで及んでしまったのだ。これは「議会制民主主義」が既に政権与党である「自民党」によって破壊されてしまった事を意味している。

                  関連記事(外部リンク)はこちら→ http://lite-ra.com/2017/04/post-3071.html

                   

                  独裁政権を望むならば別だが、あくまでも「国民主権」「民主主義」が良いのならば、今すぐ安倍政権と自民党(及びその補完勢力)を政権の座から引きずり下ろすしかないだろう。

                  | かまた | 時事関連 | 08:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  私たちは当たり前の世界に戻ります。
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                    「物」というものは、それが仮に生活する上での必需品であっても、そのもの自体が「無尽蔵」であることが分かっているなら、ただ同然の値段で得ることが出来たとしても何の不思議も有りません。

                     

                    しかし例えば「金(ゴールド)」のように元々産出量が少なく、供給量が頭打ちと考えられるものでは、その需要に応じた価格設定が為される事は、これまた何の不思議も有りません。また、このように需要と供給の関係に一定の「不変性」があるものでは、価格自体もある程度「固定的」であって然るべきでしょう。

                     

                    一方で、諸条件により「生産量や産出量(=供給量)」に変動が見込まれるものに於いては、結果的に時々の「需要と供給のバランス」が変化するため、調整の追いつかない部分に於いて「価格変動」が生ずるのも、また自然なことと思われます。

                     

                    と、ここまで「当たり前の感覚」を以って「当たり前のこと」を書いたつもりです。そして、これにもうひとつの「当たり前」を付け加えるなら、「物の売り買いとは元々等価交換の認識のもとでの物々交換の代用として、価値の固定化された通貨を利用することを前提としている」ということだと思います。

                     

                    そう考えると、私たちの中では「(相対的に)お金の価値が短期間で上がったり下がったり」すること自体が、非常に違和感を覚えずにはいられません。何故ならそれは「需要と供給」に関係の無いところで「物の値段が上がったり下がったり」する事と等しいからです。しかもそれらは私たちと関わりの無いところで勝手に行われているのですから、私たちはある意味「それに振り回される」しか有りません。

                     

                    例えば村落の中で行われる物の売り買いの形態や概念が、国や諸外国という規模では通用しないとでも言うのでしょうか。そんなことは有りません。売り買いは売り買い、取り引きは取り引き、同じ人間同士の営みに違い有りません。ただ、お互い顔の見える村落の中では悪い考えを持つ人が少なく、広域になるほど、その比率が上がっているだけの事ではないでしょうか。

                     

                    ただ今になって一つ思うことが有ります。それは私たち人間が「何が当たり前なのか」を、心底骨の髄まで染み込ませるためには、それこそ(歴史的に)何千年も掛けて「異常極まりない世界」を、これでもかと言う程に体験する必要があったのかと言われれば、確かにそうなのかも知れません。

                    しかし幾ら何でも「もういい」でしょう。今や(一部の完全にイカれた人々を除けば)多くの人々が「当たり前の世界」を切望しています。

                     

                    その世界では「子どもでも分かる」簡単な仕組みで、物が売り買いされることでしょう。

                    | かまた | 時事関連 | 12:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    冷静でいられる時間は1日3%だけ?
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                      ※本日の記事は極めて霊的性格の強い内容に付き、霊的に疑念をお持ちの方、影響を受けたくない方々にはお薦め出来ません。その旨あらかじめお断り申し上げます。

                       

                       

                      この数字は平均的な人間のそれを示したものではなく、霊界の見立てに拠れば、人間が1日の内で冷静(=理性が先行、主導する在り方)と言える時間が3%も有れば「上出来の部類に入る」と言っているのです。つまり大方の人間は1日の内、冷静さが保たれている時間など「無きに等しい」という意味になります。

                       

                      私は今を遡ること40年前にこの話を聞いた、というか知った時、愕然としショックを受けたのを覚えています。1日24時間の3%と言えばたかだか43分12秒、並の人間にとって「人間らしい振る舞い」をすることは、その僅かな時間さえも難しいということですから当然です。

                      私はこの話を瞬時に「真実」と認識し、そこから私の(自分自身に対する)挑戦が始まりました。

                       

                      この衝撃的な話には、更に衝撃的な続きが有ります。それは「人間はある程度の霊層に到達しなければ、自分の言葉(=自力)で話せない」というものです。これはどういうことかと言うと、世の中のいわゆる平均的な人間が日常的に話している言葉のほとんど全ては「自力で発している言葉ではない」という意味です。果たしてどれだけの人がそれを「事実」と受け止める事が出来るでしょうか。また、自分の言葉を自分が発していないとすると、いったい誰が発しているのでしょうか。

                       

                      それらは人間自身がこれまで自我(=自己中心)思想を発動させるたび、無意識無感覚のまま内部に作り続けてきた無数の「自我霊、想像霊と呼ばれる潜在自縛霊」によるものとされています。その特徴は一つひとつの思想、一件ごとの状況に対してそれぞれ「一体の霊」が作られ、以後同様の状況が訪れるたびに「人間に代わって言葉や行動を制御する」というもので、普段は腹部付近に位置し、要請が有ると延髄付近まで上昇して言語中枢を操ります。

                       

                      つまり、その状況を客観的に見れば、人間が「過去の自分に操られている」という意味を持つことになり、ただ過去と同じことを繰り返すばかりで、少なくとも目の前の現状には何ら対応出来ていない事になります。即ちそれが内部霊による「霊憑(がか)り」の特徴ということです。

                       

                      ですから、そういう状態にある人の話を聞いていると、その特徴がよく表れているものです。そういう人は過去と似たような状況になると、毎回判で押したように同じ言い回しで同じことを言います。その主張は前回と(気持ち悪いぐらい)同じもので、まったく何の進歩も進展も見られません。そして必ず同じ失敗をします。

                      それは人間が「過去の自分(の過ち)に支配された姿」に他ならず、ただ霊層が低いため言葉が使えない本人に成り代わって「自我霊や想像霊」にそれを代行してもらっているに過ぎません。(逆に「彼ら」の働きが無ければ、この時点で人間は「人間らしい体裁」さえも保てていないはずですので、むしろ感謝すべきです。)

                       

                      この状況は一見すると「無限サイクル」のように思えますが、唯一ここから脱出して霊層を上げ、自らの言葉を取り戻す方法が有ります。それは「無駄口を慎むべし」と心に誓い、それを(文字通り)黙々と実行することです。それは言い換えれば「不言実行」を自らの信条(ライフスタイル)とすることです。それは「必要な期間」継続する必要が有ります。それはもちろん「安全圏まで霊層を上げる期間」という意味です。

                      何故そうする事が必要か?それは実際に行なって見れば「すぐに解る」ことです。

                       

                      因みに幼少期に於ける「ナンで?どうして?」などの言葉は概ね本人の発するものです。ですから「言葉を取り戻す」という表現となります。

                      | かまた | その他 | 11:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
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