HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
いよいよ世の中「馬鹿ばっか」
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    「馬鹿→まじか」と読む。「まじか→間近」のことで、即ち世に言う「馬鹿」とは本当は(知能が劣るという意味では無く)「間近を知らない者」の意である。また「間近」とは言い換えれば「自分の足元」もしくは「一寸先」のことで、それを知らないということは、仮に足元が不安定であっても一寸先の視界が得られなくてもそのことに気付かず「警鐘が鳴らない」ということになり、それこそ「痛い目に会うまで分からない」または「死ぬまで分からない」という結果を招くこととなる。何故(ある程度の知能を有するのに)そんな状態に陥ってしまうのかと言えば、その人間の「欲得」によって醸成された「固定観念」が、生存に必要なセンサーを無力化してしまい、危険を認識出来なくしてしまうからで、そうなれば遠目はおろか直近の景色まで「幻想」に覆い尽くされてしまう。これは例えば車の運転中に「有るはずの道が見えず、無いはずの道が見えてしまう」様なもので、とどのつまり「馬鹿」とは、そのような状態を指す「警鐘」の意味を持つ言葉であって、同時にその様な場面での用法が正しい。となれば「馬鹿」と言われて恥を覚え感謝こそすれ、逆に憤りを覚え恨みに思うなど、本来「筋違いも甚だしい」と言えるだろう。そして少なくともそういう考え方、生き方をしない限り、この先の身の安全は保証されないこととなろう。

     

    そういえば今朝ほども「馬鹿」のニュースをやっていた。横浜市の職員が、新型コロナの感染者が出た保育園の園長に口止めをして保育園の継続を指示していたという話。良心の呵責にたまりかねた園長が独断で(口止めを無視して)保護者に通知し、事無きを得たらしいが、この横浜市の職員の言い訳が傑作で「対応が不十分だった。」との事だが、ハアッ?違うだろ。それを言うなら「対応が大間違いだった。」でなければならないし、そうでなければ反省したことにならない。よってこの男はせっかくの信頼回復のチャンスを自らふいにして、一生「信頼の置けない男」としての看板を背負って生きていくハメになってしまった。(不十分=八割方は正しいという意味!)また、その件について横浜市長なども「モゴモゴ言っている」だけで、こちらもお話にならない。

     

    ということで、皆さん、他人はともかく自分が「馬鹿に陥らない」様にがんばりましょう。

    | かまた | 時事関連 | 12:02 | comments(0) | - |
    今後に必要とされるイメージ
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      我々は「二度と再び元には戻れない」であろうし、また戻る必要も無く、少なくとも「あの栄光をもう一度!」などといったイメージは、むしろ正常な判断を狂わす要因にすら成り得るでしょう。その意味で我々は今や(好む好まざるに関わらず)嘗て無い「全く新しいイメージ」のもと、「全く新しい世界」を目指すことを余儀なくされていると言っても過言では有りません。いや、それはもしかすると我々が過去数千年にわたって「心の片隅で密かに温め続けてきたイメージ」かも知れませんが、ただ歴史的に一度も顕在化することが無かったという意味に於ける「新しさ」なのかも知れません。

      歴史的にこれほどの大事であれば、当然それに伴う「生みの苦しみ」も一際であって、波状的に襲い来る災いによって、凡そ不条理なものの全てが破壊し尽されることも視野に入れておく必要があるでしょう。(何故なら不条理=非論理=永続不可だからです。)

       

      今、この瞬間に我々の成し得ることは限られています。それは来たる未来への足掛かりを一つ一つ着実に正確に打ち込んで行くことです。その目安となるイメージは無論「みんなで良くなる。みんなで良くする」であり、「おかしいことはおかしいし変なものは変」と感じるセンスでしょう。

      | かまた | 時事関連 | 09:08 | comments(0) | - |
      コロナ対策は各自「論理に従い常識に照らして判断すべし」
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        例えば「感染を防ぐ」という一点に関して言えば、論理的には「(絶対に安全な人以外の)他者との接触、接近をしない」となるはずで、具体的には「一切誰とも会わない」という行動となります。何故なら私たちには「誰が絶対に安全な人なのか知るすべが与えられていない」からです。ゆえに私たちは「感染防止(=自他の生命)」を最優先にする限りに於いて「誰とも会わない様にする」というのが唯一無二の理想的な選択肢となります。

        重要なことは「決してこの本筋から逸れてはならない」ということです。

         

        一方で私たちは上記の大原則を踏まえたとしても、それとは別に「どうしても他者との接点を持たなければならない場合」が生じます。それは自他の生命と生活を維持するために最低限必要な行為、行動と言えます。

        まず家庭内で同居する家族、身内の人々との接点を絶やす事は事実上不可能なので、こうした場合は世帯単位で「大きくひと括(くく)りの個人」とみなすしか有りません。(俗に言う「運命共同体」という概念が正しいというのでは無く、現実的にそうなっているということです。)

        あとは「生活物資の買い出し、配達品の受け取り」などに於ける最低限の接触ぐらいであることが、ここ数週間の経験上判っており、その辺りの接触回数、接触時間などを如何に減らしていけるかについては、各自の工夫が求められるところと思われます。

         

        ここまで読み進めて「仕事や学校の話が欠落している」と感じる向きもあるかと思われますが、これらの組織に属している場合に重要な事は、何らかの強制力を持つそうした組織が「現時点でどれだけ生命の安全を保証してくれているか」を、考慮する必要が有ります。仮にもし「不十分」と感じ、その指示や方針に従い続けることに「不安を覚える」とすれば、(他人はどうあれ)一旦立ち止まって今一度、組織と自分との関わり方を考え直してみる必要が有ると思います。何故なら「自他の生命を優先させる事は常識」だからです。

        その際「固定観念は禁物」です。健闘を祈ります!

        | かまた | 時事関連 | 09:26 | comments(0) | - |
        何故「自粛要請」にも関わらず多くの若者や人々が「ウロウロする」のか?
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          これは「経済至上主義」によって「国民教育」の一環として無意味な消費行動をあたかも「善徳行」であるかの如く刷り込まれて来た結果なので、急に「ヤメろ!」と言われてもやめられないのは当然。言っておくが「豊かな生活」というのは華美で刺激的で珍しいものを見聞き飲み食いすることとは無関係で、生きる目的自体が「豊かな精神性」に基づいているということだよ。即ち国がそのような国民教育を行ってきたなら国民は黙っていても危機意識を共有し自ら率先して「適切な行動」を取れるものだ。

           

          いささか「手遅れ」の感は否めないが、これを機に日本国は「もっとまともな国民教育」に勤しんで頂きたい。

          | かまた | 時事関連 | 08:28 | comments(0) | - |
          価値観の「180度逆転現象」が始まっています。
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            それらは多くの場合(事態の切迫する中で)45度ずつ二転、三転した後、気が付けば180度逆転という経過をたどるでしょう。道理に従おうとする気持ちが多少なりともあれば、必ずそうなります。その際「過去への執着は禁物」です。その場合悉く判断を誤ることになります。何故なら「二度と過去へは戻れない」からです。

             

            以下、参考までに「価値観の逆転」に関する過去記事を再掲します。

             

             

            ※過去記事再掲始め

             


             

            ◎ 近い将来「価値観」が180度逆転します。(2016/11/06の記事)

             

            社会には様々な価値観が存在していますが、その中でも民族的特徴や風土的特色、国や地域社会の歴史的経緯や周辺との関わりなどにより、社会の中に「大方に依る一定の合意」即ち「固有の文化」が形成されて行くものと思われます。

            しかし「文化」は必ずしも前述の様に「合理性」に基づいた自然発生的なものばかりとは限らず、「支配者や権力者」たちの都合の良い方向で意図的に作り出される事例もまま有るように思います。それらは当初は「降って湧いた様な話」で明らかに異質なものであっても、やがて徐々に拡がり(広まり)を見せ、いつの間にか周り中その色合いで塗り尽くされてしまえば、人々はあたかもそれが「合意のもとに自然発生的に形成されたもの」の様に錯覚させられてしまうことでしょう。

            それについては「リテラ」に(ディズニーに関する)興味深い記事が掲載されています。

            記事はこちら→ http://lite-ra.com/2016/11/post-2672.html

             

            一般的には「物の価値」は社会的合意によって決定付けされている様に思います。それは単純に「需要と供給」の関係で、そこでは需要が多いということ自体が「価値が有る」ことを示し、更になおかつ供給が少ないものを「価値が高い」などと評します。

            食品や衣類、住居など「生きるために必須のもの」であれば確かにそうでしょうが、それではディズニーランドやスポーツ観戦、映画や演劇、コンサート鑑賞、海外旅行や世界遺産巡りなどの「価値」とはどのようなものなのでしょうか。(これらは生活必需品目では有りません。)

             

            よく考えるとこれらの「心の栄養?」とでも言ってのけられそうな需要は、スポンサー広告やテレビ番組による特集、またはニュース番組のトピックスなどメディアを駆使した「誇大な広告宣伝」の効果として生じています。(ゲームや○○ブームなど「トレンド」と言われるものの大半がそうです。)

            ですからそれらを「文化」や「社会的合意」とするのは正確には誤りであって、実際にはごく限られた人たちの限られた目的による煽動、喧伝によって「意図的に作られた需要」であり、もたらされた「価値観」と理解するのが正しい様に思われます。

             

            何故なら、これらの何れにも本質的に「心の栄養」となり得る要素は乏しく、むしろ「自己満足、ストレスの捌け口、束の間の現実逃避」的な効果ばかりが際立つからです。(「心の栄養」とは、自らの人間性、社会性を向上させ、それを実生活や実社会に反映させ得るだけの学びの要素が不可欠で、単なる「リセット」のことでは有りません。)

            例えば、何故ディズニーランドに行くのかと問われれば(大人の場合)「リセットが必要」というのは、海外旅行やその他の趣味でも同じでしょうが、では何故リセットの必要が生じるのかと言えば、おそらく「自分がこんなで世の中がこんなだから」という答えにしかならないでしょう。

            しかし「自分と世の中がこんななのはどうして?なんか変じゃない?」というところまでは中々思いが行き届かないのが現実だと思います。

             

            これまで私たちは社会の「表の顔」しか知らされていませんでしたが、ウィキリークスやユーチューブなどを初めとする様々な情報の入手手段によって今後は「表の顔」と「裏の顔」を同時に知り得る機会が多くなっていくことと思います。(それは同時にメディアの歴史的、構造的な欺瞞性が証明される結果ともなります。)

            その上で(社会的通念として)「全てに於いて表の顔はインチキで裏の顔が真実だ」ということにでもなればそれに伴い、当然物事の価値は180度逆転します。

             


             

             

            ◎ 物事の価値観が180度変わる(2017/03/25の記事)

             

            その瞬間が刻一刻と近づいています。これは単に「価値観が変わる」ではなく、180度とするところに意味が有ります。何故なら「物事の根源的な理解」が覆(くつがえ)るからであり、それによって「社会常識」全般も覆ることになるからです。

             

            「根源的な理解」とは例えば、宇宙とは何か、に始まり、地球とは、世界とは、国とは、人間とは・・・と続く本質的な事物に対する理解のことです。しかしこれらを一つ一つ分けて考えることに余り意味は有りません。これらは或る一つの認識をきっかけとして同時に置き換えられる関係性にあると思われます。

             

            この「(世界的な)価値観の劇的な転換」がどのようにしてもたらされるのか、具体的に示すことは多分困難です。何故ならこれは何千、何万、或いはそれ以上の途方もなく多くの(特徴的な)事象が複雑に絡み合い・・・というより影響を及ぼし合い、融合を重ねながら進められて行くであろうからです。つまりこのような観点から、この事は「誰にも制御は出来ない」ということです。

             

            当たり前のことかも知れませんが、世の中は現状、概ね「マジョリティー(多数派)」とされる人々の価値観を主体として物事が進められていますが、それに対して(本質的な部分で)疑義を唱える「マイノリティー(少数派)」の人々も存在することは事実で、そのような人々への評価が「不適応者」「変わり者」ならまだしも「発達障害」「適応障害」などと見做される事すら有るでしょう。(例えば「嘘が決して付けない人」は発達障害でしょうか?)

             

            しかし既に前述の「価値観の180度転換」に向けた変化は、目に見えない形ではあっても着実に進んでいます。そこには当然「多数派と少数派の逆転」も含まれるでしょう。その中に於いて、最も危険なものは「固定観念」に囚われ続けることだと思います。

            いつ、どの時点で「リセット」を掛けるかは、私たち個々の判断に委ねられていますが、早ければ早いほど良いでしょう。

             


             

             

            ◎ 価値観の逆転は仮想現実の終焉を意味する(2018/02/06の記事)

             

            人々の誤った価値観は、真実や事実の誤認によってもたらされますが、その真実や事実の誤認は「意図的に操作され作り出された誤った視覚、聴覚、体感情報それ即ち仮想現実」によってもたらされます。

            具体的にはテレビの番組やコマーシャルで特定の物品に対して「みんな持ってる」「みんな大好き」と繰り返し連呼するだけで、それが「自分にとって必須の価値有る物」と視聴者側に感じさせることが出来、またそれと同じく特定の人物や職種、立場の人々を繰り返し持ち上げ高く評価し、さも価値有る人々あるいは権威有る人々であるかの如く謳えば、その人たちの言動は自ずと高い評価を以って受け入れられることとなるでしょう。

            このように(自然発生的にではなく)人為的に操作され演出的に作り出された「真実や事実の裏付けを持たない価値観」に覆い尽くされた状況を「仮想現実」と言うことが出来、当然ながらそれは或る特定の方向に人々(=社会)を誘引することが目的のものです。

             

            例えば今や「スマホ社会」と言っても過言ではないほどのスマホの普及率の裏側では、かなり以前からその電磁波(マイクロ波=電子レンジと同じ)による人体への悪影響が懸念され続けていますが、仮想現実の日本社会では「(総務省からして)そうした話は無いも同然」として来ました。(学者や有識者や役人の判で押されたようなテキトーな話を真に受けて仮想現実を謳歌し続ける限り、今後も死人や病人が増え続けることとなるでしょう。)

             

            それから仮想通貨の暴落に留まらず、とうとう株式市場の暴落が始まったようですが、以前から申しているように「物理的な価値の裏付けのないお金に元々信用の根拠は存在しない」のが物の道理ではないでしょうか。即ち近年の株価の高騰はそれこそ「人々を何らかの誤認に誘導することを目的とした大掛かりな仮想現実」そのものであったと言えます。この先理想的には「お金は物理的な裏付けを有する本来の価値」まで戻るべきでしょう。そして株価もそれぞれの会社の本来の価値を表わす価格であるべきでしょう。

             

            こうして現在の「仮想現実」を演出している多くの誤った事象や認識のひとつひとつが陽光に晒され風化して剥がれ落ちて行くたびに、人々の認識が自ずと是正、修正され、正しい認識に基づく価値観が新たな社会理念を形成して行くこととなるでしょう。

            それはもちろん「受動的な意味」ばかりではなく、私たちひとりひとりがそうした変化の中で「最善を尽くす」ことが求められることとなります。

             


             

            過去記事再掲終わり

            | かまた | 時事関連 | 07:58 | comments(0) | - |
            「混迷、混沌の年」に際して
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              まず始めに、当ブログ2019年12月1日の記事を再掲します。

               

              (再掲)


               

              毎年この時期になると「さて、来年は・・・」ということとなり、ちょうど去年の今頃には「2019年は結果現象の年」という意味の記事を書かせて頂きました。因みに「結果現象を見る」とは、因果関係によって或いは論理的な帰結として生じた大小様々な事象が「明らかな形で人の識るところとなる」ということです。例えば人為的な面では、利己的な欲望や欲求に基づく(地球規模から個人レベルまでの)悪意の多くは完全に露呈し尽くし、むしろそれらが堂々とまかり通っているかのようにさえ見えます。(その意味では最早嘗ての「陰謀論」という言葉自体が死語と言って良いでしょう。)何れにせよ人々の「二分化」はほぼ完了していると見て取れます。

              こうした現状を踏まえた上で、来年(2020年)のキーワードは「混迷、混沌」となるでしょう。但しこれらは十分に配慮された表現と言えます。それは例えば、仮に真実を決定的に伝える写真(映像)であっても、それが余りにもグロテスクで生々し過ぎる場合にボカシが入るのと似ています。

              そして私たちに今、最も必要なのは「乗り切るための心の準備」ということでしょう。

               


              (再掲ここまで)

               

              申し上げたいのは、この記事は「予知、予言では無い」と言うことです。更に言えばこれはある種の「論理の帰結」だと言うことです。

              但しここで言う論理とは、必ずしも「知識や数値的データの集積」に拠るものとは限りません。何故なら「論理とは基本的に感覚するもの」だからです。例えば「美観」によって事物を直感的に「美しいか醜いか」で識別する際に、いちいち数値を引き合いに出す必要が無いのと同様に、論理もまた、それを直感するためのアンテナさえ錆びついて無い限りは、基本的に「合否の見極め」が容易に出来るものです。

               

              「論理」を感覚するアンテナを錆びつかせる要因は、一重に「自己執着に端を発するところの各種執着」に他なりません。(「自己執着」を「我欲」と読み替えても構いません。)

              多くの人は「自己に執着することで自己防衛出来る」ものと考えるのかも知れませんが、それでは全くの「本末転倒」にしかなり得ず、アンテナを失った状態では「論理的に誤った判断」が多発することとなり、その中には「致命的な結果」を招く重大なものも当然含まれるでしょう。無論、それでは自分自身を護ることなど到底適いません。

               

              言うまでもなく「論理的」とは「適切」を意味し、一方で「非論理的」とは「不適切」を意味します。更に言えば「不適切」とは「無理やり」を意味します。無理を押し通そうとすれば抵抗が生じ、圧力が増大します。それでも止めなければ「圧力は無限に増大」します。何故なら「論理が覆(くつがえ)ることは決して無い」からです。それは例えば密閉した容器の内部圧力が無限に増大するようなもので、耐えられる容器など作り様が無いのと同じ話です。つまり「論理を無視する」とはそういう恐ろしい話なのです。

               

              繰り返しますが、この先私たちは混沌、混迷の続く社会情勢の中、自らのアンテナ感度をパワーアップさせて「論理を直感」しつつ生きて行く必要があろうかと思われます。

               

               

               

              | かまた | 時事関連 | 10:20 | comments(0) | - |
              「備蓄」の必要は常に有ります
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                トイレットペーパー等の買いだめによる品薄状態が起きている中、政府による「在庫及び供給は潤沢だから買いだめするな」という主旨のコメントは少し違うと思います。そもそも震災を始めとする各種災害への備えを「自助努力」として推奨してきた経緯を踏まえるならば、今回の「新型コロナウィルス」に対しても予測可能な範囲で「自助努力として備える」ことは当然で、敢えてその必要が無いと言い切るためには、「国が完全にコントロール出来ている」状況下でなければなりません。(事態はそれとは程遠い様に思われます。)

                 

                今回、食料や生活用品の備蓄の必要性が生じている理由は、何も「中国の生産力の低下」に限らず、今後予想可能な「最悪のシナリオ」に備えるためと言って良いでしょう。即ち日本国内に於いて「生産工場や物流の停滞、停止」が(一時的にせよ)絶対起きないと言い切れないのがその理由です。(そもそも0%で無い限りは「確率の高低にとらわれず備えるべき」が災害、災難への備えの基本でしょう。)

                 

                更には平常であれば一日の半分以上を会社や学校で過ごす人々の多くが自宅で過ごすことが多くなれば、当然「家庭内での消費」が膨らみます。物によっては三倍、四倍となり、トイレットペーパーなど、その最たるものかも知れません。であるなら量的、質的に平常時と違った購買傾向が生じて来るのは「当たり前の事」ですから、社会全体としてその「新しい購買の流れ」に即座に対応してゆけば良いのです。(つまり人の居場所が変われば消費場所が変わり、購買者、購買場所が変わる。)

                 

                ですから政府が言うべき事、やるべき事は「買いだめするな、買い過ぎるな」では無く、緊急時、非常時にしっかり備えてもらうべく、物が必要な場所に必要な量行き届く様に、生産や物流全体を監視、調整の上、関連業者に対して(業者任せでは無く)的確な要請を行っていくことに尽きると思われます。(個数制限等を含む)

                少なくとも今回の「休業、休校」要請の半月前から物流面の検討、準備に取り掛かっていたら、現在の様な「買い占め、品薄」状態は生じていなかったはずです。(それが本来の「先手、先手の対策」ではないでしょうか?)

                | かまた | 時事関連 | 11:00 | comments(0) | - |
                すでに「非常事態」と言えるでしょう。
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                  現在最優先されるべき思考は「自分の身は自分で守る」となろうかと思われます。

                  マスクの争奪戦も結構ですが、より深刻なのは「物流の停滞、ストップ」が生じた際の影響です。

                  出来れば最低1〜2週間分の「食料、日用品」の備蓄が必要と思われますが、それで足りるとも限りません。

                  ともかく今は不要な出費を省き、「必要な備えを早急に行うべき時期」と言えます。

                   

                  ※ 「そんなハズ無いだろう」と思われる方は、上記の記事を無視して下さい。

                  | かまた | 時事関連 | 07:40 | comments(0) | - |
                  「社会性」の崩壊(2020年節分に際して)
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                    およそこの世は「利己」と「利他」の二者択一でしか有り得ず、例えばその中間的な「フィフティ:フィフティ」というイメージですらも「利己」の一種に過ぎません。また、いわゆる「家族愛」「愛国心」などの一般的な「同族愛」に於いても、やはり「利己」の拡大、延長版に過ぎません。何故ならそれらは通常「容易に敵を作るメンタリティ」と言えるからです。即ち「どう転んでも心に敵を作り得ないメンタリティ、精神的環境」以外は(如何に器用に世渡りしようとも)全て「利己(=自己中心思想)」と見做されます。

                    こうした「利己(的行為)」の目的は「個(=己)の優遇による個の保存」つまりどれだけ快適に末永く生き続けられるかということでしかなく、それはしばしば「種の保存」よりも「個の保存」が優先されるという、生物学的に有り得ない現象をももたらします。

                     

                    ところでそもそも「社会性とは何か?」ということですが、基本的には寄り添って生きる人々がそれぞれに「利他の発想」を以って社会の枠組みを構築し、発展させ、運用していくことで、相互扶助に基づいた「誰もが生きやすい明るく楽しい社会」を望み、目指す心だと思います。つまり「社会性」とは、既存の社会に合わせる形のことではなく、前述のような社会を渇望する心と言い換えても良いでしょう。

                     

                    今年も節分を迎え、明日はいよいよ立春です。(節分、立春が特別な意味を持つ日であることは過去記事に書いていますので、参照して下さい。)

                    2020年は混迷、混沌の年であることは既に申し上げた通りですが、新型コロナウィルスの対策等、早くも混迷状態が生じています。今後は世界でも日本国内に於いても不安定要素が山積状態にある中、何が起きても不思議では有りませんが、その際「利己的」な人々に於いては一層生き辛くなるかも知れません。何故なら、その一例として蓄積する毒素(不純物)を体外に排出する能力が著しく劣化、鈍化しているに違いないからです。

                    | かまた | 時事関連 | 10:43 | comments(0) | - |
                    本日は2020年1月2日です。
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                      昨年の12月1日に「2020年は混迷、混沌の年」となる旨書いた通り、それはもう始まっています。何故なら、2019年に生じるべくして生じた「結果現象」であるところの露呈、失墜、瓦解、崩壊などに依って、従来の(「信じたい事を信じる」などといった)希望的観測が、今後悉く打ち砕かれて行く事になろうからです。その理由は、それらの希望、願望、欲望などが一重に「論理的でなかった」からです。例えば10人の人間がいる中で、一人の人間が富や権利を独占する事は(如何に詭弁を弄しようとも)論理的では有りません。何故なら、そこには常に「不公平、不平等」という火種が付きまとう事に依り、安定性の確保が不可能となるからです。これは完全に「自己の破滅」を目的に生きているので無い限り、実に愚かな選択と言わざるを得ません。

                       

                      他方、世の中には「我欲に根ざした自己主張」を好まない、論理的で豊かな社会性を有した人々も少なからず存在します。無論その人たちにとっても昨年は「結果現象の年」であった訳ですが、それらはおそらく前述の「非論理的な人々」のそれとは意味合いや趣の異なるものであったはずです。ゆえに同じ「2020年は混迷、混沌の年」と言っても、(確かにその為の備えや対策は必要だとしても、)むしろその後の「社会の再建、再構築」まで視野に入れた「前向きなイメージと発想」で乗り切る事も可能かと思われます。

                       

                      つまり「二分化」されたそれぞれにとって、「混迷、混沌」の持つ意味、受け止め方は大きく異なるということです。

                      | かまた | 時事関連 | 08:56 | comments(0) | - |
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