HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
社会の建前と本音について
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    (国際社会であれ日本社会であれ地域社会であれ)私たちの社会に建前と本音が存在するのはもはや周知の事実と考えて良いだろう。それは具体的には、理路整然と整えられ明示された(一点非の打ち所のない)建前上の社会システムと、それに対して現実に社会で何が起こり、結果として社会がどうなっているかを精査することで識り得る本音の部分に分ける事が出来よう。(例えば「公文書は改ざん不可」という建前の一方で、役所が利する様に「公文書の改ざんは従来より行われている」という内情(=本音)が伝えられている。)

     

    また、一説に拠れば社会は(建前と本音という観点から)少なくとも「三層構造」になっているとの事らしいが、仮に四層あろうが五層あろうがひとつも不思議ではない。何故なら、ひとつの建前に対して「本音をどこまで明かすか」という程度問題はおそらく(相手相応に)「無断階的」に生ずると思われるからだ。つまりその場合、実質的に社会の最高権力を掌握する側が「本音をそっくり明かす」階層がその社会の実体であり、社会の最深部ということになる。

     

    但し「真実は何か?」という観点で言えば「本音を明かさない」こと自体は善でも悪でもないと言え、「釈迦も方便」の喩えにもあるように、通じない者や理解の及ばない相手に対しては「段階的」に理解の及ぶ範疇で相対することが正しい選択とされるからだ。故にこうした何らかの「階層構造」は(本音の善悪に関わらず)社会の効率的で円滑な運用を計る際には必ず存在するものと考えて良いと思う。(子が親と、平社員が社長と同等の認識を持たなければならない理由はない。)

     

    それはさておき、現社会の問題点は、表層の建前に於いては常に(カモフラージュ用の)「善意」が示され続けてきた反面、深層の本音では恒常的に「悪意」が渦巻いており、そのためあらゆる結果が(人々の意に反して)「悪い方向」にしか向いて来なかった事だ。(人々の反戦の意に反して国際的な緊張が高まる一方なのもそうした理由だ。)だからこそこうした現状を改善し、本音に於ける社会の善意を取り戻すためには最低限、表層という建前に隠蔽された「悪意の実態」を浮き彫りにし、それらと対峙し検証を重ねた上で明確に「ノー」と意思表示する必要があろう。

     

    因みに「社会に於ける建前と本音」も「人間個々に於ける建前と本音」も、質的、構造的には同じと考えて良く、故に「幸福な社会」と「幸福な人生」は同義と見て良い。何故ならどちらの本音も「人間性」に根ざしたものであり、(良いとされる)社会システムと個々の生活様式のどちらも「人間性」に基づいている事は、疑う余地もないからである。

    そこでこの際「何故人間性が豊かであるほど幸福度が高いのか」を明確にしておく必要があろう。それは「論理性は元々人間性が有しているもの」だからである。

     

    つまり「幸福とは論理性の帰結として存在する」と言うことが出来る。(何故なら「絶対的な安心と安全」が前提となるからで、論理の整合性のみがそれを保証するからだ。逆に言えば人はそれを得られないから幸福と感じない。)

    その意味に於いて人間性の豊かな人は容易に論理性を理解し、幸福に至るが、人間性の乏しい人は(高学歴であろうとも)決して論理性を理解出来ない。(敢えて言うなら「合理性止まり」で、それは感性に表れる。)故にそういう人々は「都度の満足」は得られても、決して幸福を感じることはない。

     

    ではどうすれば「豊かな人間性」を得ることが出来るのか。答えは非常に簡単で、「霊界を無条件に受け入れる」もしくは「良心に全面的に従う」ことで道が開かれる。(逆に言えば、それ以外にない。)

    | かまた | 時事関連 | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
    突き付けられた真実
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      今回の公文書改ざん問題、自衛隊PKO日報隠蔽問題などによる国会紛糾によって広く国民の知ることとなった事と言えば、社会を健全且つ円滑に運営していくための社会システムが肝心なところに限って「形骸化」しており、全く機能していないという紛れもない事実であろう。

       

      それは何も国政レベルに限った話ではなく、国政がそうであるなら県政、市政、町政共にそうと考えざるを得ない。取り分け社会システムの健全性を保つ役割を担うべき司法や検察、警察の偏向や劣化が如実であるとすれば、それは憲法の精神すらも踏みにじられ、社会システムが実質崩壊している事を意味する。(法の番人が機能不全に陥れば当然そうなる。)

       

      そうなれば世の中では(建前上の)強弁やどうしようもない屁理屈が堂々とまかり通るようになり、実際「何が正しいか」が問題にされるのではなく「(当面)何に(誰に)従属するのが損か得か」という低次元の発想が最大の関心事となることは、火を見るよりも明らかだ。(既に八割方そうなっている。)

       

      但し「当面」の損得は決して(未来永劫はおろか)一寸先をも保証しない。何故ならその選択は「論理的に間違っている」からだ。論理的に練り考えられた社会システムを「形骸化」させるということは「論理に背く」ことに他ならず、それは滅びの道でしか有り得ない。だから「低次元の発想」と言わざるを得ない。

       

      故に今更「社会システムをどうこうしましょう」という論議も教育も不毛で意味が無いと断言出来る。何故なら問題は「システムの不備」から発しているのではなく、明らかに「人間性や社会性の欠如」そのものだからだ。(但し愛国心云々には関係ない。)

      強いて言うなら価値観の最上位に「人間性」を持ってくれば良いだけの話だ。そうすれば「人間性の乏しい人間に立派な肩書を与えるような愚」を犯すような事は根絶出来るはずだ。

       

      そして更に言うなら、今後世の中は必ずそうした方向へ向かう。それは当ブログでも以前より「価値観が180度変わる」と言い続けてきた通りだ。何故なら私たちが「突き付けられた真実」に対する答えはそれしかないからだ。

      | かまた | 時事関連 | 08:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
      口は災いの元
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        近年、社会で起きる様々なレベルの様々な事件、事象を鑑みるに付け、つくづくそう思わざるを得ない。

         

        思い返せば小学校の頃、当時の「道徳」の教科の時間に「有言実行と不言実行」について教わった記憶が有るが、戦後の民主主義教育の一環としては「コミュニケーションの重要性」に対する理解を促進させる観点から、「有言実行」がより良い選択とされる空気があったように思われる。

         

        だが同時に私はその時、子どもながらに一抹の違和感を覚えたのも事実で、何故ならそれまでの日本の文化には「黙して語らず」即ち「不言実行」を美しい、正しいと捉える向きがあったのもまた事実だからだ。(そうでなければ敢えて「有言実行と不言実行」を対比させる様な教わり方をしなかったはずだ。)

         

        もちろんその場合の「不言実行」には、あくまでも自らが「善で有り正義である」という前提が置かれていて、悪事をこそこそ行なうという意味でない事は当然であり、むしろ「黙することで自己顕示欲を抑制する」という意味合いを持つと考えられる。つまり「不言実行=謙譲の美徳」ということだ。

         

        無論「有言実行」を悪いとか、劣るとか言うつもりはないが、問題は「有言(=言葉を発する)」ということに対する個々の人々の理解や解釈の有り様だと思う。例えばそれが「自己顕示欲」を目的としたり、相手に対する「牽制や威嚇」を目的としたり、甚だしきは「自らの本質を故意に相手に見誤らせる」ための言葉などは、もはや「有言実行」の体を為しているとは言い難く、単に悪意による言葉の乱用で有り、極めて醜悪だ。

         

        民主主義であろうがなかろうが私の経験上、他者に自分の誠意や思いの丈を伝える目的であれば、饒舌である必要はなく、吟味された少ない言葉で十分だ。また、それでトラブルが生ずるはずもない。更に言うなら「言わず語らず(=不言実行)」は未だに有効で、時折り「事足りない」と感じた際に最低限の「有言実行」を用いれば済むことだと思う。何故なら現に多くの場合「口は災いの元」になっているし、それでは命が幾つ有っても足りないぐらいだ。(皆さんは奇跡的に生きているが)

        | かまた | 時事関連 | 10:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
        常に最大の問題は「自分がどうあるべきか」
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          過去記事でも再三指摘したように、現在の政治体制は内部告発による蟻の百穴?によって既にボロボロの状態で崩壊寸前、もはや立て直しは不可能に思われる。今更ながらこうなる事は少なくとも一年以上前から決まっていたと言って良い。(人間はおかしいことをおかしいときちんと感じることで、それが判るようになっている。)

           

          しかも今回の政権崩壊は今までのそれとは意味が異なり、一言で表わすなら「日本国システムの崩壊」と言えるほど社会の仕組み全体に大規模な影響を及ぼしかねないものとなるかも知れない。何故なら政権が「しらを切り通し、座にしがみついてしまった」せいで、長きにわたり土中に広く深く根を張っていた「社会の暗部」が掘り起こされ、白日の下に晒されてしまったからだ。

           

          こうなってはもう、誰も「元の鞘」には収まれないし、崩壊して消失した後の更地の上に新たに「日本国にふさわしいシステム」を構築していく以外に選択肢はないと思われる。

          こうした際に重要な事は、私たち一人ひとりにとって従来のような「身の隠し場所」はなく、誰もがありのままの自分の姿を人前に晒すことになろうということだ。

           

          つまり今後の社会に於いては「善意と悪意が明瞭に区別される」こととなろうが、実はその兆候は既に始まっている。実際、内部告発出来る立場にある人々は、常にそれをするかしないかの葛藤に責め苛まれ、それ自体が既に「身の置きどころ」を失っている証拠と言える。同様に、あらゆる人が「自分がどうあるべきか」或いは「自分に何が出来るか」といった「身の処し方」を明確に自覚すべき時期に来ていると思う。

          | かまた | 時事関連 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
          高畑勲監督の言葉について
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            先日亡くなった高畑勲監督が生前「これで安倍政権が崩れないのは本当に信じられない」という主旨の事をおっしゃっていたそうですが、確かに(これだけ不祥事が頻発し疑惑だらけにも関わらず)「何てしぶといんだろう」「根負けしそう」などと思われる方も多いのではないでしょうか。

            関連記事はこちら→ http://lite-ra.com/2018/04/post-3933.html

             

            しかし私は「安倍政権は必ず崩壊する」という話と「安倍政権は簡単には終わらせられない」という話は、どちらも同じくらい論理的な正論だと確信していて、だとすればそれは「どちらも受け入れざるを得ない話」として理解しています。

             

            例えば世の中には(感情論として)「安倍政権にはまだまだ頑張って欲しい」と思っている人だっている訳ですが、論理的筋道として安倍政権が崩壊せざるを得ないとするなら、その時点でそういう人々の「感情」は無視されることになります。

             

            それと全く同じ様に「安倍政権には一刻も早く終わって欲しい」と切望する人々の場合も、やはり論理上「一定の手間と時間を掛けなければ安倍政権は終わらせられない」ということがあるとすれば、その人たちの「一刻も早く」という感情的な部分は無視されるでしょう。

             

            前述の高畑勲監督は「ズルズル体質」と表現された様ですが、日本人はさして悪意も感じないままズルズルと悪い方向へみんなして流されて行く傾向が有ることを指摘されたそうですが、ここで肝心な事は「ズルズルと悪くなるには相応の時間が必要」ということです。

             

            この際、詳細は割愛しますが(一般的には)「失われたものを取り戻す」には、失うのに掛かった時間の最低3倍程度は必要となるはずです。(それ以上の短縮を望むのは「せっかち」の部類に入ります。)

            私はそれが「安倍政権がしぶとく見える理由」だと思っています。

             

            とにかく今年は「可能な限り対峙し続ける」こと。その際「決して根負けしない」こと。その先にしか次のステップは有りません。

            | かまた | 時事関連 | 18:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
            NHKからも遂に「内部告発」が
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              http://lite-ra.com/2018/03/post-3916.html

               

              上のリテラの記事にある通り、、さる3月29日の参院総務委員会に於いて、共産党の山下芳生議員は「NHKの権力の監視機能は著しく低下している」「政府からの独立が極めて弱い」と指摘した上で、「私のところにも、NHK関係者からの内部告発と思われる文書が届きました」と切り出し、その内部告発を読み上げたとのこと。

               

              取り分け安倍政権になってからNHKは著しく政権に配慮する報道姿勢が目立ち、以前よりネット上では「犬HK」などと揶揄されるまでになっており、事実を正確に発信するという公共放送の役割を果たしているとは到底言い難く、むしろ国民に(隠蔽や印象操作により)事実誤認の下での不利益を与えかねない状況が続いている。

               

              こうした憂うべきNHKの現状を改善する有効な手立てと言えば、やはり当事者自らによる「内部告発」であることは間違い無いが、それは何もNHKに限った事ではなく、公民問わずあらゆる組織に通じる話と言え、自分自身で組織の矛盾、汚染、汚濁を抱え込み、悩んだ末に自殺するよりも100倍良い事と気付く人々が今後増大するに違いない。組織の方々良いですか?腐った組織は一旦リセットして構わないし、リセットした方が結果が良いに決まっている。(人間は元々組織のパーツではないので、組織を失っても生きていけます!)

               

              何れにしても今年は「対峙」の年。(内部告発も対峙の一形態であり)その中にあって(恐れをなして)対峙出来なかった人々が、ただ終わって行くだけのことと思われる。

              | かまた | 時事関連 | 11:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
              「反社会的」とはどういうことか?
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                「反社会的」とは文字通り「社会に反する様相」或いは「社会にとって害悪や悪影響をもたらす様相」を呈するという事となり、(人殺しや盗っ人の例を引き合いにするなら)一見解りやすい話と思われます。しかし、事はそう簡単には行かない様です。何故なら、ある事象や考え方に対してそれを「反社会的と見るか否か」は、物事に対する視野の広さや思想レベルの深度によって異なってくるものだからです。

                 

                例えば「視野」の問題で言えば「家族を守るために他人とぶつかる」などは有りがちなケースと思われますが、これを「反社会的」と非難すべきかどうかは(大方の人にとって見れば)迷うところでしょう。何故なら曲がりなりにもそこに「家族愛」の存在が窺えるからです。「そんなものは無視しろ」と言えば逆に「冷たい」とされるに違い有りません。しかし元々「社会的」とは、可能な限りの大所高所から自身を「客観的に見る」という意味を含んでいますので、そうした意味でやはり「他人とぶつかる事」には問題が有ります。

                 

                また、社会全体で「何を主要な価値観とするか」という「思想レベル」によっても「反社会的」の意味は異なってきます。例えば「経済第一」と考えるなら、経済発展に水を差す様な意見や言動は「反社会的にして慎むべき」となるでしょうし、仮に「政権の安定が第一」という考え方が為された場合、政権批判そのものが「反社会的」と見做されてもひとつも不思議では有りません。

                しかしこうした単純化された価値観の掲げ方が危険で有ることは言うまでも有りません。何故なら「経済発展」或いは「安定政権」という見た目の形だけに価値が置かれ、逆に質や中身を正す機会を失する事に成り兼ねないからです。

                 

                私に言わせれば、今の日本社会は(誰が何と言おうと)「思想の紊乱、道義の廃頽」の極みにあると思われます。その非常に解り易い見本として、まさに現政権と、与党の自民、公明各議員、更に政権の息の掛かった官僚諸氏による常軌を逸した奇想天外な発言や振舞いがあるのだと思っています。

                聞いているとそうした人々にもそれぞれに言い分が有り、それなりの理屈が有るのは分かりますが、何を言おうとも結局「反社会的」とは「偏狭な視野と思想レベルの低さ」に尽き、それは当ブログにて従来より指摘しているが如く「自己中心主義」の賜物でしかないと言うことです。

                 

                即ち地域社会に於ける「偏向した家族愛」は自己中心主義であり、「偏向した経済至上主義」もやはり自己中心主義であり、無論「偏向した愛国主義」も自己中心主義に他ならないということです。何故なら、私から見ればそれらは総じて「余りにも他者に冷淡」だからです。

                つまり「思想の紊乱、道義の廃頽」とは、徹底した「自己中心主義(=非人間性、反社会性)」を指します。よしんば「みんながそうだから」と言って自分もそうなってしまったなら、いったい社会はどこで歯止めが掛かるのでしょうか?(その先にあるものは人間社会の崩壊、壊滅でしかありません。)

                 

                人間にとって「自己中心主義」は論理的な誤りであることを良く理解すべきです。それに際して「自分だけならいいだろう」といったズルさは禁物です。そのような思想は(本来の目鼻立ちに関係なく)まず醜悪な顔の相となって外見に如実に表れます。(鏡を見て気付かなければ、もう手遅れです。)

                | かまた | 時事関連 | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
                某小学校の卒業式について
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                  小学校の卒業式に於いては、6年間学んだ成果を再確認し、中学校という次のステップに進むための心構えを再確認するという主旨に尽きると思われ、そうした思いが「卒業証書授与」という改まったひとつの形に集約され得るものと考える。

                   

                  翻って近年の卒業式の傾向は、そうした「シンプル・イズ・ベスト」の発想に程遠く、やたらに尾ひれはひれをくっつけてイベント化、バラエティー化がエスカレートし、そのため明らかに主旨の輪郭がぼやけている。

                  何より卒業生の子どもたち自身がそうしたイベント的せわしなさに翻弄され、「間違えたら大変」といった本来無用な強迫観念すら起こりかねず、「卒業の実感を噛みしめる」どころではないはずだ。

                   

                  こうした傾向はズバリ(卒業式本来の主旨とは無関係の)「ウチは他所と違う」「ウチは見栄えがイイ」といった大人のエゴ以外の何ものでも無く、肝心の卒業生の子どもたちの心は明らかに「置いてけぼり」を喰っている。但し大方の子どもたちにはそうした自覚が無く、無意識に「何でもかんでもオモシロおかしくなければ気が済まない」という軽薄な感性を事有る事に醸成されて行く結果となる。

                   

                  百聞は一見に如かずだ。卒業証書授与の最中、BGMでディズニーソングを流される違和感は実際この上ないものが有る。(「違うだろー、違うだろー」と言ってやりたかった。)

                  このように(子どもじみた大人たちのせいで)すっかり箍(たが)の緩み切った子育て、教育行政はどこかの時点で一度リセットされなければならないだろう。

                  | かまた | 時事関連 | 10:11 | comments(1) | trackbacks(0) |
                  「森友公文書改ざん問題」を受けて
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                    「森友公文書改ざん問題」を受けて、官邸前では連日の様にデモが繰り広げられており、各メディアもそれを無視出来ないという状況が続いています。つまり事態は「一部メディア対政権」「野党対政権」に留まらず、目に見える形を以って「一般市民対政権」の様相を呈してきた訳です。無論そうした動きの根底には「民主主義の崩壊(=国家主義の台頭)」に対する国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感が存在する事は言うまでも有りません。

                     

                    はっきり言って「デモに参加すること」自体は面倒な事とも言えます。何故なら個々の国民はそれを仕事にしている訳でもなく、それぞれに日々の暮らし向きがあるからで、出来ることなら国家の運営や諸問題の解決は、(自分たちよりも優秀なはずの)政治家や役人の仕事と割りきって考えたいところでしょう。(特に同一民族の国家という認識の強い日本では、従来よりその傾向が強い様に思われます。)

                     

                    しかしこれは政権という(警察力をも含む)圧倒的な強権との「対峙」そのものであって、そもそも「対峙」という概念自体が同時に「リスクや面倒を抱え込む」という意味を持っている訳です。にも関わらず(それを百も承知で)「対峙」に踏み切らざるを得ない理由は、ひとえに「物事の優先順位」に有ります。

                    前述の様な「国民の強い危機感、恐怖感、嫌悪感」の先には、これまでにない「非常に大きなリスクや面倒が待ち受けている」という認識がなされているはずです。であるとすればこの際「対峙」という一定のリスク(=小難)を負ってでも「大きなリスク(=大難)」を躱(かわ)したいと思うのは極めて正常で冷静な考え方と言えます。

                     

                    このように「対峙」とは、自らの(側の予想される)リスクを軽減し、物事を少しでも良い方向に向けて行くために必要不可欠な対処の在り方であり、感情的で利己的なケンカとは意図も方法も異なります。つまり以前から申している様に「おかしいものはおかしい」としてそれを安易に見過ごさず、論拠を明確に示し、根気よく是正を求め正常化して行くことこそが「対峙の本質」であり、それはあくまでも「話し合いの延長線上のもの」でなければなりません。(但し、元々は排斥を目的とするものではないにしても、相手の出方次第ではそうした結果に結び付く場合もある事は否めません。)

                    | かまた | 時事関連 | 10:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    改めて「沈没船、黒船方式」について
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                      今般の「財務省決裁文書改ざん問題」によってほぼ決定的となっている政局の流れ、世論の方向性は、昨年来当ブログでも「沈没船」或いは「黒船方式」として指摘させて頂いてきた通りです。

                      これは端的に言えば「対峙→崩壊→再建(立て直し)」という流れとなり、私たちはまずあらゆる意味に於いて「新生日本」を目指さなければならないと思います。(それは社会システムの一新をも意味するでしょう。)無論、それは「国民の総意」のもとに於いて成し遂げられなければならないことです。

                       

                      しかし話はそこで終わりではなく、まだその先が有ります。私たちは前述の日本国内に於ける「対峙→崩壊→再建(立て直し)」と同様の流れを、今度は「新生日本」を足がかりとして国際社会を視野に作り出して行く必要が有ると思います。何故なら日本だけが(世界情勢や国際社会と無関係に)マイペースに平和で豊かな社会を作り、維持することなど不可能と思われるからで、そもそもそれでは「みんなで良くなる、みんなで良くする」という社会の理念に反します。

                       

                      つまり私たちの目指すところは「平和で豊かな国際社会」ですが、そのためにはまず、日本が生まれ変わって「世界から愛され尊敬される国」でなければなりません。(国も人も関係性の論理は同じです。)

                      | かまた | 時事関連 | 10:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
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