HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
みんなが「好き勝手」に生きようとすれば
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    みんなが「好き勝手」に生きようとすればどうなるか、それは今の社会が如実に体現しています。現社会に蔓延する不公平、不平等、不謹慎、不道徳、不条理、無関心、無感動、無気力などは、すべて「自由(主義)」の名のもとに「(ルールさえ守ればあとは)好き勝手にしていいですよ」とされてきた結果に他なりません。

     

    例えば「ルールさえ守れば」と言ってもそれは「法令違反に対して罰則規定がある」という意味で、極端に言えば「そんなことを意に介さない人たち」にして見れば平然とルールを破るに違い有りません。何せその人たちにとっては「自由(=好き勝手)」が最優先事項であって「法令遵守(=他人に迷惑を及ぼさない範囲で)」は多々有るリスクのひとつに過ぎないのですから。(これではいくら法整備しても、犯罪自体が益々狡猾で悪質になるだけです。)

    つまり「自由(=好き勝手)」な社会とは、基本的に強者が弱者を侵害して良いとされる社会のことです。

     

    そこにはもうひとつの問題が有ります。例えば私たちは日頃「政治家や役人」に対して「公人としての責任の自覚」を求めますが、それは謂わば「俺達は自由((=好き勝手)な生き方をするが、お前ら(公人)は一切まかりならん」と言っているようなもので、別の言い方をすれば「俺達は欲の皮を突っ張らせて生きるが、お前ら(公人)は聖人君子でなければならない」ということです。

    私に言わせれば、このような理屈が通るはずが有りません。実際にあった話ですが「オレはこんなダメ人間だが、お前たちはちゃんとしろよ。」と言って我が子を諭(さと)した父親に対して、子どもが(何でお父さんだけいいんだよ!?)と強い憤りを感じたそうです。当たり前です。

     

    確かに現状「政治家や官僚たちの臆面もない自己保身振り」には目を疑いたくなるものが有りますが、忘れてならないのは現在の日本国民の最優先事項がそうした自己保身を含む「自由(=好き勝手)」であり、それを何十年も国を挙げて当たり前のようにしておいて、今更公人にばかり「滅私奉公」を求めるのはいくら何でも無理でしょう。

    それにそもそも「欲の皮の突っ張った人」が(選挙で)自分たちの代表として「聖人君子」を選ぶ訳が有りません。要するに私たちの「社会の歪み」は元を正せばそうした「国民一人ひとりの勘違い」からきているというのが正しい認識と言えるでしょう。

     

    来年こそは、まずはそういうどうしようもない自分としっかりと「対峙」出来れば良いと思います。しかるのち(余裕が有れば)自分たちを取り巻く諸問題と「対峙」すれば良いでしょう。(せめて「崖っぷちに立たされている」という実感さえ持てれば少しは本気になれるのでしょうが。)

    | かまた | 時事関連 | 10:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
    まずは「籠池佳茂氏のツイート」を読むべし
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      今日は少しばかり厳しい話をしようと思います。何故なら以下の籠池佳茂氏のツイートがたいへん深刻で厳しい内容だからです。

      http://www.asyura2.com/17/senkyo237/msg/639.html

       

      籠池佳茂氏は両親である「(詐欺容疑で逮捕された)籠池夫妻の不当とも思われる長期勾留」を当事者として目の当たりにするに至り、現政権の異常性、危険性と、それを黙認する社会の異常性、危険性を文字通り「有らん限りの言葉」を以って「私たち国民に対して」訴え掛けています。

      その論拠として現政権がまい進する「改憲、軍拡」が有り、それを容認すれば「何れ困ることになるのはあなた達自身であると気付いて欲しい」更には「気付いたなら今すぐ声を上げて欲しい」という主旨と思われます。

       

      ここでひとつ確認しておく必要があるのは、佳茂氏を含む籠池家の人々が当初は現政権が目論む「国家主義、愛国教育」を支持し、加担する側にいて、安倍総理による「トカゲの尻尾切り」以降、政権と距離を置かざるを得なくなった経緯があるということですが、それを以って「自業自得」と切り捨てるのはどうかと思われます。佳茂氏も「自分は中にいた経験があるからわかる」とツイートの中で言っている様に、物事を劇的に動かすためには「内部を知る人々の力」に勝るものは無いのですから、そういう一つひとつを大切にして行く必要があると言えます。

       

      そこで本日もここから「霊的考察」となるのですが、以前から指摘している様に、安倍晋三と彼の政権とその各種取巻きは現在露骨な「開き直り」の真っ最中でもあり、逆に言えばそれしか打つ手が無いと言え、これで押し通せるかと言えばそんなことは(霊的に)有り得ず、幾多の解りやすい教訓を残した上でその悪しき役割を終えるでしょうが、それはそれとして私たち個々人として重要な事は「その過程に於いて誰がどのような思いで何をしたか」ということに尽きるのです。

       

      例えばあなたがそうした過程の中で「終始一貫傍観者に過ぎなかった」とすれば、あなたの未来は(その後どのような社会が訪れようとも)「傍観者だった者(=冷たい人)」としての未来でしか無いと言うことです。私に言わせれば、これほど当たり前の話は有りません。だからこそ私は今までも、そしてこの先も出来る限りの事をしようとしている訳です。

      ですからみなさんがもし、この先も「傍観者」で有り続けたいと望むのであれば、取り敢えず「霊界の存在を否定する」しか無いと思われますが、もちろんそれも私が口を挟むことではなく、みなさんの自由です。

      | かまた | 時事関連 | 11:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
      便利ツールの原点は「薬」です。
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        昨日は「便利ツール」が確実に人間の論理性(=自立性)を衰退させ、やがては訳も分からないままシステムに依存するしかない「危うい状態」に貶めて行くであろう話をしました。何故そう断言出来るのか、それはそもそも「便利」に跳び付く心の傾向自体が「ずるさと欲」という「非論理性」に端を発しているからで、それは「便利」とは本来「論理的に(物事に)要する手間暇を(感覚的に)バイパス(=省略)することで得られる実感」に他ならないからです。(事実「便利屋」という商売の中身はそうなっています。)

         

        ところでこの「便利ツール」の原点が「薬」であることは、ほぼ間違い有りません。特に植物の薬効を主とした生薬の歴史は古く、世界では今から6000年も前にシュメール人が、日本でも4000年以上前の縄文人が既に用いていた痕跡や記録が残されているとのこと。

        こうした薬の役割は当時も今も基本的に同じで、ただ「(感覚的な)体調不良を(感覚的に)改善する」だけのことですが、それは必ずしも「体調不良が起きた論理的道筋に沿って体調の改善を目指す」という意味とは限りません。むしろ荒っぽい言い方をするなら「理屈はどうあれ(体調不良を)感じなくすれば良い」という考え方さえも有って、それも含めて「薬効」と言えるでしょう。

         

        ここでもし「この世に薬というものが無かったらどうなるのか」を想定して見ると、改めて薬の「便利ツール」振りが解ると思います。その場合、私たちの選択肢は病気(=体調不良)に対して前述の如く「体調不良が起きた論理的道筋に沿って体調の改善を目指す」しか無くなるはずです。(例えば「冷え」による症状は温めるしか無く「睡眠不足」による症状は寝るしか無い等。)要するに「原因の究明」が最重要課題であり、病状の改善は「時間と手間を掛けてその逆を辿るしか無い」ということです。

        例えば不摂生や不養生或いは無理を重ねた挙句に3年掛けて痛めた体を元に戻すためには、自然治癒力による修復能力を合わせ考えるなら少なくともその3倍、凡そ10年は掛かると見るのが普通でしょう。それを思う時に、薬というものが如何に「便利を通り越したトンデモツール」であるかが解るというものです。

         

        さて、いよいよここからは「霊的考察」となりますので、関心の有る方のみ読み進めて下さい。

        「霊的」には、薬(という概念)は「神が故有って人間にもたらしたもの」とされていますが、その本当の理由は「病に苦しむ衆生を救うため」と言うような平易で解りやすい話では決して無く、むしろ「エッ、どういうこと?」と一瞬理解に戸惑う様な内容を孕んでいると言えるかも知れません。しかしそれは本来「病、貧、争」からなる人間の不幸の要因に於ける(突出した)薬の存在、或いは薬に依存する人の心の中で何が起きているかを改めて考察することで、自ずと見えてくるものと思われます。(奥義に属するため答えは書きません。)

         

        ただ、この際はっきりと言えることは、私たちには「薬という便利ツールに依存して生きることを良しとするか否か」という選択肢が常に有り、それは他の「便利ツール」に関しても、それぞれに「自分の生き方に対する是非」が論理的に存在することと変わりが有りません。

        (因みに私の場合、薬もスマホも「ノー」です。単にどちらも自分の生き方との接点が無いからです。)

        | かまた | 時事関連 | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
        支配者は「便利な世の中」を作りたがっている
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          それは「人々の幸せ」を願っての事?もちろん表向き(=建前)はそうでしょうが、その本音がどこにあるのかは、自分が「支配者」の立場に立って考えて見ると、すぐに気付きます。

          因みに「便利さ」とは「要求に対する提供サービスの快適度、満足度」として感じられるものですが、その部分が「ノンストレス」の方向性に向かう事にいったい何の文句があると言うのでしょうか?

          この問いに対して当ブログではこれまでにも多くの記事を書いて再三警鐘を鳴らして来ました。(例えば「便利」というキーワードでブログ内を検索して見ると、20以上の記事がヒットしますので、関心をお持ちの方はそちらも参考にして見て下さい。)

           

          ともかくも「(性根の良くない)支配者」の目線で「安定的支配に必要なもの」を列挙して見ることにします。

           

          ○ 人々から「論理的思考力」を奪う。

          ○ 人々に「ちゃちな自己満足」以外の関心を持たせない。

          ○ 人々の「外敵」をでっち上げ、支配者こそが「人々の守護者」と思い込ませる。

          ○ 人々を「仲間割れ」させることで団結力を削ぎ、個々に分断しておく。

          ○ 「強権と適当な社会サービス」によって、人々の「抵抗感」を完全に削ぐ。

           

          私に言わせると、この中の最初に掲げた「人々から論理的思考力を奪う」部分が「支配のための根幹」となります。何故ならそうすることで人々は「筋道を立てて物を考えよう、理解しよう」としなくなり、それはそのまま「支配、被支配」という明確な対立構造すらも「希薄化」させることとなるからです。つまり人々が「支配されていることさえ気付かない」という状態こそが、まさに「理想の支配」ということになります。

          それは例えば、私たちは日頃「自分たちはお金に支配されている」と意識することがないまま「お金に支配されている」のと同じことです。(気が付けば「支配」からの脱却も可能なのですが。)

           

          その上で言うなら、(スマホを始めとする)世の中の便利ツールや機器やシステムの際限ない「自動化」が、人々の「論理的思考力」を既に著しく衰退させていることは明白です。何故なら「ただボタンを押すだけ」の裏でいったい何がどのように行われているのかも、そのような仕組みに依存し切る(=命さえ委ねる)ことの危険性(の有無)さえも、もはや考えることは愚か、気にも留めようともしなくなりつつあるからです。

          強いて言えば、そこには支配者側が「安全」と言えば安全と信じ「危険」と言えば危険と無条件に信じる社会現象が一般化されているだけのことで、これでは個々人の価値判断など「無きに等しい」と言えます。

           

          私は日々報じられる些細な事件や事故、社会現象などから、今の社会が非常に危険な状態にあることを肌で感じています。例えば「ブレーキとアクセルの踏み間違え」や「タンクローリーの横転」「クレーン車の転倒」など、車に関するものだけでも「以前は有り得なかった事が急増」しているように思えますが、これらはみな「論理的思考」が健全に働いていれば(体調の急変でもない限りは)起こり得ないと言い切れます。

          私は今でも運転に際し「最低限の論理性を確保すべく」マニュアル車を運転していますので、(構造的に)ブレーキとアクセルの踏み間違えなど有り得ません。

           

          車の例で言えば、車自体がこの先「自動化」の方向へ向かうに従い、一般ドライバーの意識が逆に「運転の論理性」から遠のいて行くことは(これまでの経緯からも)明白で、「事故を防ぐため」とする国やメーカーの建前はともかくも、それに伴う「新たな問題」が発生することは容易に想像出来ます。(以前にも「自動運転」に関する記事を書いています。)

          もちろん「支配者側」にとって、そんなことはとっくに「想定済み」の事で、それよりも高額商品である車を売り続けることと、自動化による「(間接的な)支配力強化の一環」としての意味は大きいと言えるでしょう。

           

          一方で「ゲームやスポーツ、学業、読書などで論理性を学び鍛える」という話も有るでしょうが、残念ながら(一部の例外を除けば)ほとんど役に立ちません。何故ならそれらの学びは「論理よりも合理に近いもの」だからで(詳細は別項目となるのでここでは割愛しますが)もし本当にそれが適うというのなら、横綱の暴行やゲーマーの歩きスマホ、高学歴の人々の不正や汚職など、論理の破綻した事件、事故が起きるはずが有りません。(少なくとも倫理観や美意識に迫るものでなければ「論理」とは言えないでしょう。)

          | かまた | 時事関連 | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
          村本大輔氏曰く「沈黙は悪」
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            つまり「そう思う故(他人はどうあれ)自分は思うまま(本音)を言いたい」ということだろう。更に彼は今の社会について「みんな建前ばかり」「有るものを無いものにしようとしている」などとも言っている。(以下はIWJの記事と動画ですが、IWJへの入会を勧誘する意図のものでは有りません。)

            https://iwj.co.jp/wj/open/archives/408444

             

            ここで村本氏は非常に重要な事を示唆している。それは、彼が問題視しているのは「周囲の空気に流され、ともすれば沈黙を良しとしたがる自分自身の中の悪」に他ならず、決して他人を責めたり攻撃したりしようという意図ではないということだ。(何故そう言えるのか、それは「論理的」にそうなるからだ。)

             

            人間が「空気を読んで沈黙する理由」はひとつしかない。それは「自己防衛(=保身)」だ。では「沈黙」とは何か?それは「見てみぬふり(=有るものを無いものにする)」を形に表したものだ。では人が(保身上)「見てみぬふりをしたくなるもの」とは何だ?それは「他人の不幸や苦しみ」であり、もっと言えば「もがき苦しみ助けを求める人の姿」に他ならない。

             

            つまり「沈黙が悪」である理由は、それが多くの場合「保身の余り苦しみの末に助けを求める人々を見捨てる行為」であり、更には「空気を読む」という時点でそれが「社会現象としての弱者切り捨て」という社会悪をも表わす事になるからである。

             

            おそらく村本氏は「それが社会の在るべき姿」とは思っておらず、少なくとも自分は「社会人としてそうであってはならない」と言いたいだけなのかも知れない。だとすれば彼の根底には当然「助け合い(=相互扶助)」の精神が存在することになり、そういう人が(他者に対して)排他的、攻撃的であろうはずがない。

             

            ところで昨今はネットを中心に村本氏を賞賛し、応援する声も少なからず聞こえてくるようだが、このように「孤軍奮闘する人々」に対して外野(の絶対安全圏)から「がんばって」「応援してます」などと声を上げて済ます時代はとっくに過ぎている。そうではなく、そうした一つひとつを契機として各々が「自分には何が出来るか」を真剣に考え、行動すべきが今あらゆる人に求められている。そのようにして形成されるネットワーク的な横の繋がり、或いは面の広がりが社会を動かす力となるのは言うまでもない。

             

            ※ 無論私自身も未だに(ネットのみならず)いくつかのシーンで「孤軍奮闘」の真っ最中で、死ぬまでそのつもりです。

            | かまた | 時事関連 | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
            芸術家は「○○バカ」か?
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              音楽や絵画、文学その他の芸術的分野或いは芸能分野に於ける「抽象的表現」によって、私たちの直面する社会問題、社会環境が劇的に改善されたなどという話は、今まで聞いたことがない。(そういう役割ではないのがその理由だろうが、芸術論、文化論などに踏み込む気もないので、それ以上言及しない。)

              しかし言ってみればそれは、警察官が、消防士が、看護師が、はたまたバスの運転手がその職務を忠実に果たす事だけでは社会を劇的に改善する事が出来ないのと、本質的には同じ事だと思う。

              つまり芸術家も芸能人も、他の仕事の人たちも「仕事をしているだけでは社会に対する積極的な働きかけにはならない」という意味では同じ立場なのだ。

              それなのに何故アーティストやエンタテイナーが社会問題を語り、政治的な話をすると「すべきでない!」など猛烈な批判の対象とされるのか。(街頭のインタビューで普通に商店のオヤジやサラリーマンの兄ちゃんがコメントしている程度のことでも。)

               

              ひとつには「芸能人のクセに」「ミュージシャンのクセに」などの差別意識かも知れない。おそらく芸術家や芸能人のことを「好きなことを夢中になってやっている連中、つまり○○バカ」と見ているのかも知れない。そうでなければ「クセに」という話にはならないはずだ。もしそうならそれは大いなる勘違いと言っておこう。

              「連中」の多くは普通に「社会人感覚を持った社会人」だ。

               

              それともうひとつは「有名人なりの影響の大きさを恐れ、故にフェアでないという意識」かも知れない。しかし「影響の大きさ」を語るなら、著名な政治家やどこぞの名誉教授、学者、医者、弁護士など、みな言いたい放題だが、それとて何も自分たちの専門性だけでコメントしている訳ではないので「コメントは専門家だけ」という定義があるわけでもない。

               

              そうなると結論はこうなる。即ち「(○○バカで)損得勘定が無く、影響力が大きいにも関わらず本当のことを言う連中はマズい」ということしかない。

              だったら尚更そういう人たちは気兼ねなく(他の人々が言えない分)ガンガン言った方が良い。そうしないと世の中は良くならないよ。

              | かまた | 時事関連 | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
              人間社会も人間個々も「構造的な課題」は同じ
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                私は来年のキーワードである「対峙」について、それを語弊無く伝えるために何が出来るかについて振り返って見ました。というのも、この言葉はイメージとして「誤解、曲解」を生みやすいと思われるからです。

                というのも「集団同士が対峙する」場合、どうしても「臨戦態勢」即ち相手方を排する戦いのイメージが付いて回るからです。そうなると「排除する」という目的が先行することとなり、そうした「排他的思想」により本来の主旨や質が自らの中で変質、劣化してしまう恐れがあります。

                これはつまり「目的のためには手段を選ばず」ということですが、そもそもそうした「モラルの低下」が社会環境の悪化を招く要因であることは疑う余地も有りません。

                 

                例えば「経済成長のためには手段を選ばず」「影響力拡大のためには手段を選ばず」「競争に打ち勝つためには手段を選ばず」「保身及び立身出世のためには手段を選ばず」等々何れも社会に有りがちですが、これらは「バレなければ何をやっても良い」という意味にもなり、最終的には「犯罪者の心理」と見分けが付きにくくなります。となれば社会が悪化の一途をたどるのも当然です。

                つまりこの「手段を選ばず」という考え方は(一見柔軟なように見えて)大変危険な側面を持っており、決して踏み込まない方が良いでしょう。

                 

                「対峙」の本当の意味は「自分自身としっかりと向き合った上で自らを確立する」ということです。具体的には自分の内面の「ずるさ、弱さ、醜さ、やましさ、後ろめたさ」など、人としての問題点を直視し、自分の中で「おかしいものはおかしいし、良くないものは良くない」として、そうしたものに流されることなく「しっかりと踏みとどまれるだけの心の強さ」を自ら養うことです。

                つまり「今の自分と(良心に基づく)在るべき本来の自分を向き合わせること」が「対峙」の本来の目的ということです。

                 

                問題は、そのことと「社会を良くする」ことが、どう関係してくるのかという事ですが、私たちは社会の中で(良心に基づく)信条や信念に従って生きようとすれば、自ずと「出来る事と出来ない事」が生じてきます。それは能力云々以前に「やるべき事とやるべきでない事」という意味合いに於いての事になります。(簡単に言えば「他人に損害や迷惑を及ぼす事はやるべきでない」と言ったようなことです。)

                つまり私たちが「社会を良くする」ために今最も求められているのは、(他人はどうあれ)自らの信条、信念に照らして「(済みませんが)私には出来ません」の如く明確な意思表示をすることです。それは他人を批判する事でも攻撃する事でも有りません。(相手の不興を買いたくないなら敢えて「ダメ人間」を装っても構いません。)

                 

                思えば「官僚の忖度」から始まって、相撲界の不祥事、新幹線の重大インシデント、過労死問題、企業のデータ改ざん、ゼネコン談合疑惑、マスメディアの政権忖度等々、全て「出来ないものを出来るとしてしまった結果」ではないでしょうか。

                故に社会に於いてあらゆる職種のあらゆる立場の人たちが、自分の気持ちに率直に「出来ません」と言えることが、りっぱな「対峙」の姿であるように私には思えます。(そんな当たり前のことが言えない社会がまともであるハズが有りません。)

                | かまた | 時事関連 | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
                もはや「アナログ」しかないという話
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                  JAL(日本航空)が振り込め詐欺被害に遭ったとのこと。しかも金額が半端でない3億6千万円で、手口は(よく有る)「振込先が変わった」というもの。そんなの確認すれば判りそうなものと思うだろうが、デジタル上は100%完璧な「なりすまし」が行われていたとのことで「デジタル上のセキュリティ対策」に依存する限り防ぎようが無い(らしい)とのこと。

                  当たり前だ。「悪意ある者」が技術的に一歩でもセキュリティを抜きん出れば必ずそうなる。だからニュースで一報が報じられた瞬間に思ったことは「先方の担当者に電話で確認したのか?」ということで、そんな単純な事を怠るようではその担当者も「グル」ではないのかと疑われても仕方がない。

                   

                  「デジタル依存社会」に警鐘を鳴らすもうひとつの記事は、スプートニク日本版《Bitcoin.com共同創業者、「未来がない」ビットコインを全て売却》というもの。それ自体、ビットコインが爆発的に高騰を続ける中で異例の対応とも言えるが、それより目に付いたのは文中にある《また、これより前、中国のマイナーたちは「ビットコインキャッシュ」について、ハッカー攻撃に対する防御がより優れていると主張していた。》という一文で、これは裏を返せば「デジタル通貨にはハッカー攻撃が必ずついて回り、そこにあるのは単にセキュリティレベルの違いだけ」という話になる。(それこそ前述の「振り込め詐欺被害」の話と何ら変わらない。)

                  つまりこと「デジタル」に関しては、如何なる優れた技術と言えども(論理的に)「安全神話」には遠く及ばないということだから、それを承知で「いいとこ取り」だけをすれば良く、間違っても「根幹部分で依存してはいけない」と言いたい。

                   

                  やはり根幹部分は「アナログ」で対応すべきだと思うし、私自身は可能な限りそうしているつもりだ。

                  いつだって「便利」と「危険」は隣り合わせなのだ。(警戒キーワードは「自動化」。人間はこの誘惑に弱い。)

                  | かまた | 時事関連 | 09:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  疑うべきは社会の「主流、多数派、常識」
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                    ここ数年、日本の屋台骨を支えている大企業がこぞって不正行為を行っていた事実が明らかにされ、経営トップが並んで頭を下げる光景もすっかり見慣れたものとなりました。また、そうした事と相俟って(大企業絡みの)多くの「安全神話」も次々崩壊の憂き目に遭っています。

                    つまりこれを一言で表せば「大企業など信頼に足るものではなかった」ということで、ただそこには「大企業=巨大な金儲けの装置」という事実が有ったに過ぎません。更に言えば「大企業だから信頼出来る」のではなく「大企業だから(あの手この手で)信頼出来ると見せかける事が出来た」に過ぎません。何のために?もちろん儲けるためですから、今更ながら「大企業=エゴのかたまり」ということしか言い様が有りません。ですからそんなものに頼り切っている日本社会の矛盾が形となって表れるのも当然です。

                    そう言えばその昔、多くの庶民が犠牲となった「公害問題」を引き起こしたのも大企業ですし、戦争でさえも「金儲け」の視点で見るのもこうした大企業の特徴と言えるでしょう。(であれば絶対に「戦争反対」とは言いません。)思えばその辺りから、そもそも我々庶民とは掛け離れた存在です。

                     

                    話は変わりますが、NHKの今朝のニュース「東京オリンピック・パラリンピックに関する世論調査」は何故、あんなにもいい加減なのでしょう。すぐに気が付いたのは選択項目に(NHKお得意の)「どちらとも言えない」が見当たらないことです。即ちそういった姑息な手段でオリンピックの支持率を(国民の総意とも受け取れる)80%の大台に無理やり乗せていることが窺えます。

                     

                    またヤフーなどの検索サイトで「タバコ 嘘」と入力して検索して見ると、色々と興味深い記事が閲覧出来ます。これらは社会に於いて「禁煙、嫌煙」が正当化されて行く流れの中でマスコミによって常に黙殺され続けて来た主張や意見の数々で、同様の傾向は原発や食の安全、医療など「利害関係」を有する多くの問題に見られます。何れも権威を盾に持つ側の主張が主流とされることに変わりは有りません。つまりマスコミは「主流を増幅する役割」でしかないと言えます。

                     

                    思えば戦前、戦中世代の人たちは、戦後になっても余り戦争体験を語ろうとはしませんでしたが、それは「当時の主流に流されるままだった後ろめたさ」によるものであったと推測します。自分の親の世代がもしそうであったなら、私の世代では尚更そんな生き方はしたくありません。誰にも恥じない悔いのない生き方を最期の瞬間まで模索し続けて行きたいと思います。

                    | かまた | 時事関連 | 16:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    2018年は「対峙」の年
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                      振り返れば2016年は、私たちの社会に内在していた様々な疑惑や歪みが問題として「表面化」され始めた時期と言え、それでもまだ辛うじて「建前」が建前として通用していましたが、2017年になると、そうした建前の陰で包み隠されてきた「本音(=実態)」の部分が次々と明るみに出始め、それに伴い社会の構造的な誤り、ひいてはそれらに関わる人間的な誤りまでもが白日の下に晒され、大いに問われる事態に陥りました。

                       

                      これは本来であれば「社会の健全化」に向けた機運が国民的に高まり、これまで一部の利己的な人々によって歪められ、蝕まれ続けてきた結果として社会に蔓延する「危機感、閉塞感」を一掃せんとする大きな動きや流れに繋がって然るべき状況と言えますが、不思議とそうはなりません。

                       

                      これには大別すると2つの大きな理由が挙げられます。

                      ひとつは俗に「欲ボケ」と称されるところの、長年施されてきた「マインドコントロール」の結果として「理性」の働きを緩慢にされてしまった多数の人々が、(自分の尻に火が付いているにも関わらず)未だ正しく現状認識出来ていないため。(この人たちは戦略的基本である「各個撃破」の被害者と言えます。)

                      そして今ひとつは、自らの誤りを認めようとしない人たちの「開き直り」が横行しているからです。

                       

                      こうした「社会の健全化」即ち「みんなが良くなる、みんなで良くする社会」の行く手に立ち塞がる障害に対して、私たちはどのようにあるべきで、また何が出来るのでしょうか?

                       

                      答えは簡単です。しかしそのためには、まず「揺るぎない信念」が必要です。それは「今が正念場で、もはや後が無い」という正しい認識が持てるか否かに掛かっています。私はその認識を得るための一助となればとの思いで、これまで1000件以上の記事を綴ってきたつもりですし、世の中には同じような思いの多くの人々の多くの発信が様々な「言動や著作物や作品」で存在しています。

                       

                      そうして、もしも「揺るぎない信念」を持つことが出来たなら、それを以ってあらゆる物事に正々堂々と「対峙」するだけのことです。それは言葉を換えれば「正しいと信じた自分らしい生き方に徹する」ということです。例えば「おかしい」と思えばおかしくなくなるまで是正矯正に努力し、納得出来なければ得心の行くまで追求するのは「人として当然」のことです。それがいつの頃からか「空気読めよ」とか「忖度しろよ」とか、そんなことはそもそも他人に言われてするものではないでしょう。

                       

                      ともかく今のままでは私たちの社会の劣化に歯止めを掛ける事は出来ません。思えば(前述の如く)先方が開き直るのも、自分たちに「後がない」ことが判っているからですが、その意味ではこちらも「後がない」ことには変わりがないのですから、謂わば状況は先方と同じなのです。

                      つまり私たちには今、こうした「開き直り」に対して忍耐強く対処して行くためにも「曲げない、折れない、引かない心と行ない」が強く求められていると言えます。

                       

                      即ち「対峙する」とは、そのような心で「出来る限りの事をする」ことを指し、ただ(何もせず)じっと向かい合っていれば良い訳では有りません。(くれぐれも「退治」と読み換えないように。奢って良いことは有りません。)

                      | かまた | 時事関連 | 11:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
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