HAL-KURSK 制作四方山話

タイトル通りです。思いつくまま、気の向くまま、ランダムに書きます。コメントやご質問は大歓迎です。
もはや「実力組織」が国民の障壁
0

    原発行政、格差社会、愛国教育、憲法改悪、バラマキ外交・・・等々、どれ一つとして国民のためにならないばかりか、まるで国民を窮地に追い込もうとするかの如く悪政に対し、「退陣」を求めて立ち上がる良識有る国民の前に立ちはだかるものと言えば、公的な実力組織である警察、検察、裁判所、それに政権の息のかかったNHKや民間のメディアも含まれよう。

    これら国民にとっての「障壁」の共通点は、官民問わず何れも「実力組織(=暴力装置)」であるということだ。(「暴力」とは一方的に物理的、精神的ダメージを与え得る状況を指す。)無論政権側としてもそんなことは百も承知故に、この期に及んでもそれら「障壁」をフルに活用してくることは想像に難くない。(具体的にはデモの過剰警備、政治家や官僚の不起訴、政府に有利な判決、報道の忖度などに表れている。)

     

    百歩譲って公務員の場合、公務員法によって「国に逆らえない」のはわかるが、だからと言って国民に対する排除や妨害を「嬉々として行う」メンタリティがもし存在するとすれば、国民主権下の公務員としては大いに問題が有るとしか言いようがなく、本来公務員としての資格がない。せめて前川氏のように「面従腹背」で取り敢えず悪政にも当面従わざるを得ないというのが妥当なところだろう。

    しかしメディア連中に至ってはその限りではなく、国民の声に呼応した良識有る行動を取らない時点で「アウト」であることは言うまでもない。

     

    その意味では公立学校の教職員も同様で、ある意味「実力組織の一員」であることは間違いない。何故なら教育基本法と、それを骨子とした地域ごとの教育振興基本計画に定められた教育を子ども(と親)たちに「強要」する以外の選択肢が基本的に与えられておらず、もしそういった「教育の主旨」自体に誤りがあっても逆らうことは許されていないからだ。(無論「辞職する」ことは可能だが。)

    これは子どもたちの未来を左右する重大な局面であることを思えば、非常に罪深いことだと思う。(事実、戦前戦中は軍国教育が強要された。)

    良きにつけ悪しきにつけ小中学校で行われる教育活動の実態を甘く見てはいけない。(文字通りここで「国の質」が決定されてしまう。)

     

    まもなくすべての価値観が逆転するだろうが、そうなれば公務員もメディアも実力組織へったくれもなくなるはずだ。そうなってから慌てても遅い。(過去は消えない。)

    | かまた | 時事関連 | 11:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
    教科書 重すぎる
    0

      今日のタイトル「教科書 重すぎる」でネット検索すると、以下のサイトがヒットした。

      西日本新聞 > 連載 > 教育はいま > 学校のハテナ(2)かばん なぜこんなに重い

       

      これに拠れば、近年の小・中学生の通学時のランドセルやかばんの重さは10キロにも達するらしい。(それがどれ程の重さかは10キロの米袋を持ってみれば容易に想像出来る。)

      通学エリア次第ではそれを背負って起伏のある道を20〜30分も歩く事になり、こうなると「これは何かの訓練のつもりか?」と疑いたくもなる。(例えば「軍事教練」のような。)

      言っておきたいのは、こうした状況は普通に考える範囲での「元気で健やかな体を育成する」という教育目標を逸脱しており、体力や体質の個人差を無視して強要されるべきでない事は明白であろうし、もし学校側にそういう認識が無いのであれば、それはそれで重大な問題であろうと思う。(実際に小学生が「腰痛」を発症するケースも有り、方や禁を犯して「置き勉」する子もいる。)

      こんな酷い話を放置しておいて「学校を好きになれ」「勉強を好きになれ」「大人を好きになれ」なんて無理だ。(「軍事教練」と明確に位置付けするなら話は別だが。)

       

      このような事態になったのは(一説に拠れば)「脱ゆとり教育」転換後の学習指導要領変更に伴う「教科書のページ数増量(=平均30%程度)」のためとも言われているが、そんなに増やす必要が有るのかという専門的議論はこの際差し置いても、「だったら教科書の紙を薄くしたり、無駄に大きい(としか思えない)サイズを見直したりして(最初から)軽量化を図るべきだろう」と言いたい。(徒歩による運搬物の重量の上限を設ける事など、まともな神経を持った大人なら常識の範囲で対応出来ることだ。)

      要は悲しいかな「義務教育関係に携わる大人たちの大半がまともな神経を持ち合わせていない」というのが結論ということになろう。

       

      いくらキレイ事を言おうが、教科書がデカくてカラーで紙が分厚いのは、そのように作ることで「単価を引き上げる」のが目的としか思えない。何故なら、たかが1年しか使わない想定の教科書を「永久保存版」の如く作る理由が皆無だからだ。(教育をカサにえげつない商売をするなと言いたい。)そのおかげで子どもたちがヒドイ目に遭っている。(これが虐待でないと言い切れる人は、その理由を教えてください。)

       

      尚、学習指導要領の元となる「教育基本法の改悪」については、当ブログでも過去記事で度々指摘しているので、ここでは割愛します。

      それはさておき100歩譲って「教科書軽く作れ!」

      | かまた | 時事関連 | 10:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
      義務教育をてんこ盛りにするな。
      0

        学校は何をするところかと言えば、基本的には「読み書き、そろばん」を教えるところであり、近代ではそれが「国語、算数、理科、社会」と理解されていました。義務教育が導入されているのは(民主主義のもとでは)「それ位は分かっていないと世の中で困る事になるだろう」と思われるからに他なりませんが、しかしそれでさえも、人によっては「理科や社会」に関しては「国語と算数(=読み書き、そろばん)」ほど差し迫ったものとは考えていないかも知れません。またそれぞれの教科に対しても「自分はどのレベルまで必要」といった具合に、子どもによって思い描くニーズに違いが有るかも知れません。そのように「学び」に対するスタンスは決して一律なものではなく、内面的な優先順位は人によって異なるのがむしろ自然だと思われます。

        但し「全体主義国家」であれば事情は一変し、教育に対するニーズは「国家の側」が持つ事となり、国民の側に選ぶ権利は有りません。

         

        ところがこのところ日本は、先の「教育基本法改悪」に踏み切って以来、まさにこの「全体主義国家ばりの国家主導の教育体制」への移行が進められてきました。つまり国民(=子どもたち)に対して「ああなれ、こうなれ、ああしろ、こうしろ」といった「国家のニーズ」を前面に打ち出してきたのです。それが国のと自治体それぞれの「教育振興基本計画」には、ほぼ同じ内容でしたためられていて、そこには「世界情勢や社会のニーズに対応するため」として(一昔前なら考えられない程の)「てんこ盛り」の内容が書き連ねられています。

        資料はこちら→ http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/06/20/1336379_01_1.pdf

         

        第一期、第二期と続いたこの「教育振興基本計画」のせいで、教育現場がどうなったか。

         

        ○ 教科そのものが増えた。

        ○ 校内での教科以外の作業やイベントなどが増えた。

        ○ 校外におけるボランティア、体験学習、イベント参加などが増えた。

        ○ 学校そのものが全国や地域との優劣の比較対象とされる。(競争環境に晒される)

        ○ 教員研修が義務付けられたことで教員の負担が増した。

         

        これらに伴う明らかな「量的負担の増加」がまず教職員と子どもたちを直撃、圧迫し、実質的に「教育の質と精度」を低下させているのは明らかで、現実に教員の時間外労働はすでに限界に近づいており、方や連絡ミスや失念などが多発し、教員の信頼性が危ぶまれる事態に直面しています。(私は現在それを直接知り得る立場に有ります。)また、そうした教職員の抱えるストレスが子どもたちに与える影響も少なからず有ることは容易に想像出来ます。

        以上のことから、こうした「現場と乖離した机上の空論」が今まさに「教育現場の疲弊、劣化」に拍車を掛けてしまっている事は明らかで、早急な教育政策の一大転換が必要とされています。

         

        そもそも小学校教育の早い段階から「国際社会のニーズに照らした人材育成」などと、到底正気の沙汰とは思えません。(そのようなお題目でマインドコントロールしたいなら別ですが)その時期であれば取り敢えず「読み書き、そろばん」に集中した方が結果は良好なはずです。

        | かまた | 時事関連 | 12:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
        安倍政権によって破壊されたもの
        0

          いよいよ明日、衆院選の投開票日を迎えますが、それに際して是非とも確認して置かなければならない事があります。すでに多くの識者、文化人と呼ばれる人たちから指摘されているように、この選挙は事実上「安倍政権の継続の是非を問う選挙」であります。

           

          即ち、安倍政権継続を望む人たちは「自民、公明、維新、希望、日本のこころ」の何れかに投票するか、または「無投票、白紙投票」でも事実上それと同じ意味となります。(自民、公明など政権側は固定票が多いため。)

          一方、安倍政権の継続を断固阻止したいのであれば「立憲民主、共産、社民、自由、無所属」などの所謂「反安倍」を強く掲げる候補者、政党を選択する必要が有ります。

          つまり親安倍か反安倍かの二択でしかなく、マスコミの誘導する「三つ巴」の構図はある種のフェイクです。何故なら大手マスコミは構造的に「権力側(=親安倍)」であり、浮動票の分散は親安倍にとって有利となるからです。

           

          ところで私たち有権者は「親安倍」にするか「反安倍」にするか、何によって判断すれば良いかと言うと、それは(良くも悪くも)2006年より現在に至るまでの第一次、第二次安倍政権の実績以外に有りません。つまり単純に安倍政権で「良くなった」と思えばYes、「悪くなった」と思えばNoであって、人それぞれ感じ方が違うのも当然ですが、その際大いに不幸なのは「(明らかに)社会や暮らし向きが悪くなった」と実感しているにも関わらず、そうした事実と「政権運営」との関連性を見い出せないまま「別に安倍政権でいいんじゃないの?」と不用意に「信任」してしまう事だと思います。(例えば、森友、加計問題(=国有財産の私物化)の解明と再発防止が結果的に自分たちの生活を豊かにするという認識に至らないなど。)

           

          そこで「安倍政権」によって国民が被った損失(と思われるもの)を再確認したいと思います。

           

          1. 教育基本法を「改悪」したことで全体主義的教育に邁進し、教職員及び児童、生徒の負担を増大させた結果、義務教育を含む教育環境を著しく悪化させ、破壊し尽くした。
          2. 大企業優先、富裕層優遇の経済政策によって、国民の大多数を占める労働者の労働環境、処遇を著しく悪化させ、破壊し尽くした。
          3. 集団的自衛権の容認により平和憲法の精神を事実上破壊し、日本を「戦争の出来る国」にしたと同時に、武器輸出三原則を事実上破壊し、日本を「戦争で儲かる国」にした。
          4. 原発行政に於いて「電源喪失の可能性」に対する(共産党議員の)提言を一蹴し、安全対策を怠った事が一因となり未曾有の事故を引き起こし、結果的に日本の国土が破壊された。
          5. 国会に於ける「数の横暴」により(十分な議論も為されないまま)強行採決を繰り返し、閣議決定を乱発する事で、事実上「民主主義」を破壊した。
          6. テレビ番組に対して名指しで抗議するなど、あの手この手でマスメディア全般に対して圧力を掛け続ける事で、政権に対する萎縮、忖度の気風を定着させ、事実上メディアの「権力監視機能」を破壊した。

          沖縄の基地問題など、まだまだ挙げればきりがないのですが、実は私たちにとって最も身近で関わりが深いのは、世の中で頻発する事件、事故の類で、それらは一見「安倍政権」とは無関係の様に見えるかも知れません。しかし、社会の安全、安心を担保することこそが政治の役割であるとすれば、そこに政権の良し悪しが反映されるのはむしろ当然の事なのです。

           

          例えば昨今の「業務上の(本来有り得ない)事故や不正」などは、過酷な労働環境や人々の無気力や焦燥感、苛立ちなどと無縁では有りません。それは通行人やドライバー同士の(常軌を逸した)トラブルや事件なども同様で、社会不安がもたらす過度のストレスでもなければ、人間は最低でも「やっていい事と悪い事」の区別ぐらいは付くものです。

          つまり「社会で生きづらさを覚える」というのも「反安倍」の立派な理由になるということです。

           

          ということで私たちは「親安倍」か「反安倍」のどちらかを選ぶことになります。

          | かまた | 時事関連 | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
          小、中学校教員の「勤務実態」について
          0

            安倍政権のテコ入れによって断行された「教育基本法の改悪」に端を発する「学習指導要領の改訂」などの影響が、思わぬ結果・・・と言うよりむしろ「予想通りの結果」を招いている。

            文部科学省が28日に2016年度の教員勤務実態調査結果(速報値)を公表し、国が示す「過労死ライン」に達する週20時間以上の「残業」をした教諭は中学校で57.7%、小学校で33.5%に上ることが明らかになった。部活動や授業の増加が主な要因。1週間の平均勤務時間は、06年度の前回調査に比べ、中学校教諭で5時間12分、小学校教諭で4時間9分増えた。現場からは「ひどいのは電通だけじゃない」と悲鳴が上がっている。(毎日新聞 4/28(金) 23:58配信

            当ブログに於いては以前より「教育基本法の改悪」に対して「子どもたちや社会全般に与える悪影響」を不可避のものとして警告を発し、その撤回、無効化を訴え続けているところであるが、こちらも懸念されていた通り(当然の事として)今回、それらの影響が小、中学校の現場の教員たちを更に多忙化させ、その勤務実態をを著しく悪化させていることが判明した。(私は彼らと直接関わっているので、尚更よく判ります。)

             

            前述の記事では「現場からは悲鳴が上がっている」とされているが、私から見れば何故(個人的な問題ではなく)労働環境の明らかな構造的問題という認識のもとに、しかも健康や命に関わりかねない問題でもあるのに声を上げないのか理解出来ない。そのために幾つもの「教職員組合」が存在しているはずなのだが。

            「子どもたちのためだから(我慢して)」と言いたいのであれば、それこそトンデモナイ勘違いと云わざるを得ない。いったいそういう人たちは子どもたちに何を教えようとしているのか?今自分たちが仕事でギュウギュウの目に合わされているとしたなら、それがそのまま今の子どもたちの将来となることぐらい分からないとは言わせない。何故ならそれが国民に対する「国からのお達し」であるからで、そこには方や「雇用」、方や「教育」という形態の違いしかない。

             

            百歩譲って「子どもたちのため」を思うのなら、悪いことは言わないので、まず「誤った教育基本法並びに学習指導要領に基づく(国策に押し付けられた人を人とも思わない)過酷な労働条件」に対して、(日教組でも全教組でも全教連でも何でもいいから)みんなして声を上げたらどうなのだ。そういう根性すら無いものに子どもの教育は向かない。

            それにそもそも「教育によって人格の完成を目指す」のではなかったのか?

            | かまた | 時事関連 | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
            「人間性」とは何か
            0

              日本には現在「日本国憲法」という基本理念が存在し、それに基づいて「国の体裁」を整え「国の運用」を行なう事が正しいとされています。

              更には「日本国憲法を遵守する個々の日本国民の人物像」としては、それらが「相応の人格や品位を備えた人々」である事が前提とされています。(その証しとして憲法と連動する位置付けの「教育基本法」には「人格の完成を目指す」と明確に謳われています。)

              そしてこの「人格の完成」とは言い換えれば「一定の人間性を確立し維持する」事に他なりません。つまり、そうでなければ「良い国、まともな国、ひいては平和で安定的な世界」は実現出来ないとされているという事です。

               

              このように憲法という「国家の基本理念」と不可分であり、不可欠のものとして「人間性」を捉える事によって、現社会の問題の本質が改めて浮き彫りにされてくる様に思います。それは当ブログでも何度も指摘してきたように、私たち国民の間に蔓延する「思想の紊乱、道義の廃頽」であり、それを言い換えれば「人間性の著しい欠如」となり、それが全ての問題の本質であり、核心部分と断言して良いと思います。

               

              例えば憲法では、仮に「人間性が著しく欠如」しているからと言って、その事で「人権が損なわれたり差別を受けたりする事は無い」旨明記されています。また「人間性の著しい欠如」を以ってしても「思想や信条、表現の自由」などは保障されています。

              しかし第十三条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 」と有るように、自由や権利と同時に他人や社会に対して実質的な損害や迷惑の及ばない事が求められています。

               

              「人間性の欠如」とは言い換えれば「自己中心思想」の事ですから、憲法上は(人権擁護の観点から)「それを持つなとは言えないが、周囲に実害が及ばない様配慮されたし」といったところでしょうか、何れにしてもそれを推奨したり、特に容認している訳でないのは確かです。

              にも関わらず「思想は個人の自由、憲法で認められているから」とばかりに、「憲法の本来の主旨」にそぐわない思想と行ないを全快にしている人たちが多数を占めるようになった為に、あらゆる分野での社会システム自体がその論理的矛盾から「機能不全」を起こしているというのが、現状と思われます。

               

              従って今後、「社会の改革」を目指す人々の論調は(言葉は違えど)主旨として「人間性の回復、復権」に集約されて行くでしょう。何故なら「そこにエネルギーを投入しなければ、社会に蔓延する病巣の根本治癒は不可能」だからです。(憲法を読み解く上でもそれが正論なのです。)

              | かまた | 時事関連 | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
              「我が国と郷土を愛する態度」を養った結果
              0

                4月2日の「リテラ」の記事で、図らずも当ブログの3月26日の記事『森友問題はそもそも「教育基本法改悪」の問題』に於ける指摘が(塚本幼稚園新理事長)籠池町浪氏の証言によって「事実」と裏付けられた事は、まことに喜ばしい限りである。(クリックでそれぞれのリンク先が開きます。)

                 

                つまり安倍政権の真の目的は「愛国教育」を浸透させると共に、種々の高圧的法案を可決成立させる事で「国民の自由を大幅に制限」し、日本を国家主義の独裁政権による「全体主義国家」に変貌させることであった事が「森友学園問題」を機に一気に国民の前に露呈してしまったということだ。

                 

                こうなると「決められる政治」「日本を取り戻す」とは当初からそういうことを意味していたとしか思えない。また「美しい日本」とは「政府の意図する公共に盾付き仇為す(ゴミとおぼしき)不貞の輩を徹底的に取り締まり一掃する」という意味にも思えてくる。いわゆる「監視社会、警察国家」そのものである。

                 

                モノの考え方は人それぞれで結構だが、個人的にはこのような安倍政権の考え方が国民の総意を反映しているとは到底思えない。だからこそ国民の前に「本音を隠し続け、憲法違反も疑われかねないギリギリの線」でこそこそやる必要があったのではなかろうか。(ギリギリ、こそこその詳細は割愛します。)

                今回のようなことが有ると、そう思われて然るべきだろう。

                | かまた | 時事関連 | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
                森友問題はそもそも「教育基本法改悪」の問題
                0

                  先頃、道徳の教科書検定に於いて「国や郷土を愛する態度を学ぶ観点から不適切」として「パン屋」から「和菓子屋」に差し替えが命じられた件について論議が巻き起こっている。

                  記事はこちら→ https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/fahrenheit451?utm_term=.jhRJmq1ybN#.cwmqVkA2Dp

                   

                  これは文科省によれば「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」との事らしいが、そもそも「学習指導要領」自体が平成18年に改悪された「教育基本法」に沿ったものであるからには、そこが問題の根源であることは明白である。

                  「国や郷土を愛する」の如くに「郷土(ふるさとの概念)」を差し挟む事で巧妙なボカシを掛けているが、その本命は「国を愛する」即ち子どもの教育現場で一貫して「愛国精神」を叩き込む事にあるのは、これも明白である。

                   

                  このように「強要された愛国」という場合の「国」は、古今東西決して「国民相互の共同体」であった試しはなく、限定された人々による「国家権力」であることは言うまでもなく、更に「愛国教育」の行き着くところは、「国に忠誠を尽くす(=命を捧げる)」であり、これは正に「教育勅語」の『進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』を体現するものである。

                   

                  今回「森友学園問題」の取り分け「(教育勅語を含む)愛国教育」の是非を問う過程に於いて、奇しくも「平成18年の教育基本法の改悪に言及する意見」が散見されるようになった事は、真に良いことと思う。これを機に少なくとも「愛国教育の是非」についての「国民の総意」を改めて明確にする事が強く求められているように思う。何故なら「文科省を巻き込む愛国教育の喧伝や浸透」のこれまでの過程は、あくまでも一政治団体である「日本会議」を主体とする一部の人々によって進められてきたという経緯があり、それが「国民の総意に基づくものであった」とは言い難い状況であるからだ。(そうでなければ今更「教育勅語」で日本中が騒然となるはずもない。)

                  | かまた | 時事関連 | 09:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  平成18年「教育基本法改悪」の経緯
                  0

                    以下の囲みは2017年2月28日の「日刊ゲンダイ」に掲載された記事よりの抜粋、引用です。(要点と思われる部分を太字表記にさせて頂きました。)

                     

                    2006年の第1次安倍政権を思い出して欲しい。キャッチフレーズは「美しい国」「戦後レジームからの脱却」だった。先の戦争後、GHQがつくった社会体制を否定し、平和憲法を改正して戦前体制に戻すというもの。そのために、安倍がまず手をつけたのが「教育基本法の改正」だった。公への奉仕を強要し、「愛国心」を盛り込み、右翼思想を前面に押し出した。

                     当時、日本会議は何と言っていたか。安倍政権を「考え得る限りの理想的な政権が誕生した」と捉え、機関紙などで幾度となく称揚していたと、ジャーナリストの青木理氏が著書「日本会議の正体」で明かしている。07年6月、日本会議の椛島有三事務総長が福岡で行われた総会で次のように語っていたという。

                    〈安倍政権発足後の変化として私が一番感じておりますのは、日本会議が「阻止の運動」「反対の運動」をする段階から、価値・方向性を提案する段階へと変化してきたということです。(中略)この一年間、教育基本法改正の運動、憲法改正の国民投票法成立の運動と日本の根幹をなす大事な問題に建設的エネルギーを注ぐことができました

                     

                    上記の一連の文章で示されている如く、国家体制の「戦前回帰」を目論む「日本会議」の意向に従う形で、安倍政権が2006年(平成18年)政権に就くや否や、何はさておき「教育基本法」に手を付け、その「改悪」に走った事が如実に窺えます。

                    つまり単に「教育基本法改悪は日本会議の意向」に過ぎなかった訳で、その真の理由は(建前とされる)「民主主義国家」としての日本の将来を見据えたものではなく、日本を戦前に於ける「全体主義国家体制」に再び移行させるための「地ならし」的な意味合いであったことが明白です。

                     

                    そしてその事を決定的に裏付けることとなったのが、現在取り沙汰されている「森友学園の運営する塚本幼稚園に於ける教育の実態及び小学校の新設計画」です。何故ならそれらは「日本会議」なるものの国家観や教育理念が100%注入されたものである事が既に明るみに出てしまい、世間の広く知るところとなってしまったからです。

                    つまり構図としてはこうなります。「森友学園←日本会議→(現)教育基本法」であり、ということは「森友学園≒(現)教育基本法」ということです。

                     

                    そうであるなら、この「教育基本法」を皮切りに、更に安倍政権が閣議決定や強行採決で「法制化」を急いだあらゆる法案と、憲法改正論議そのものが「日本会議」の意向に限りなく近いものであったという事にもなります。故にこれらすべては(近い将来)一旦「廃案」とされ、再度見直される事となるでしょう。

                     

                    それにもし国民投票を行なうなら「改憲云々」の前に、まず「民主主義か全体主義か」を選択する投票を行なうべきでしょう。(日本会議の影響がこれだけ露呈されたのだから。)

                    | かまた | 時事関連 | 11:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
                          1
                    2345678
                    9101112131415
                    16171819202122
                    23242526272829
                    30      
                    << September 2018 >>